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化け物が人間を讃えた日——HELLSINGとクールジャパンの逆説



「描けるわけがない」と言われた作品が、原作に忠実に映像化された

1997年、一本の漫画が青年誌に連載を開始した。

平野耕太作『HELLSING』。

舞台は20世紀末のイギリス。大英帝国の王立国教騎士団「ヘルシング機関」に所属する吸血鬼・アーカードが、敵対する怪物たちを狩る。

設定だけを聞けば、ゴシックホラーを下敷きにしたアクション漫画に聞こえる。

しかし、物語はそんなに単純ではない。

ナチスの残党が吸血鬼の軍団を組織し、イギリスを戦場へと変えていく。

吸血鬼。

ナチス。

キリスト教。

英国国教会。

バチカン。

そして戦争。

これらを一つの漫画の中に放り込み、さらにそこへ、極端な思想と美学を持った人間たちを配置する。

それが『HELLSING』だった。

「こんなものをアニメにできるのか」

そう思ってしまうほど、原作は濃かった。

2001年、テレビアニメ版が放送される。

しかし、テレビ版は13話のシリーズとして構成される中で、原作とは異なる方向へストーリーが進んでいった。

原作の連載が続いている段階でのアニメ化だったこともあり、テレビ版独自の展開が採用されたのである。

そして、その後。

別の形で、もう一度『HELLSING』が映像化されることになる。

OVA。

今度は、原作により忠実な映像化を目指す。

2006年から2012年。

制作会社はサテライト、マッドハウス、グラフィニカへと変わり、発売延期も重ねながら、全10巻が完成した。

6年という時間をかけて、原作の物語を最後まで映像にした。

テレビ版とは違う。

原作の持っていた世界を、より忠実に映像化する。

「アニメ化できるのか」と思わせるほど濃かった漫画が、ついにその濃さを失わないまま映像になった。

ここに、HELLSINGという作品を語るうえでの最初の逆説がある。

描くことが難しい作品だったからこそ、最後まで描き切ることに価値があった。

そして、この逆説は、クールジャパンというものを考えるうえでも、非常に興味深い。


西洋のゴシックを、日本の漫画文法で描いた

HELLSINGの舞台はイギリスだ。

しかし、平野耕太が描いた世界を「イギリス文化」とだけ考えることはできない。

その根底には、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』をはじめとする西洋ゴシックホラーの文化がある。

タイトルの「HELLSING」も、ドラキュラに登場するヴァン・ヘルシング教授を想起させるものだ。

つまり、素材そのものは日本固有のものではない。

むしろ、かなり西洋的だ。

ドラキュラ。

吸血鬼。

教会。

ロンドン。

ナチス。

第二次世界大戦の記憶。

こうした西洋の文化的記号を、平野耕太は日本の漫画として再構築した。

ここが重要だ。

単純に海外文化を紹介したのではない。

西洋の素材を、日本の漫画家が、日本の漫画表現の中で料理したのである。

濃密なキャラクター造形。

極端な思想。

強烈な台詞回し。

敵も味方も、自分自身の美学を持っている。

そして、戦闘そのものがキャラクターの思想を語る。

これは、長年にわたって日本の漫画が培ってきた表現の蓄積でもある。

だからHELLSINGは、イギリスのゴシック文学そのものでもない。

ハリウッド映画そのものでもない。

日本の漫画が、西洋文化を素材として作り上げた「第三の何か」だった。

ドラキュラを知っている人間には、見慣れた世界が異様な形に変貌していく面白さがある。

日本の漫画を読んできた人間には、キャラクターの濃さと台詞の熱さが刺さる。

そして、その二つが組み合わさったとき、HELLSINGという独特の世界が生まれた。

これは、クールジャパンを考えるうえで非常に重要なポイントだと思う。

クールジャパンとは、必ずしも「日本的なもの」を海外へ輸出することだけではない。

海外の文化を日本人が取り込み、日本独自の表現文法で再構築する。

その結果として生まれた作品が、逆に世界へ出ていく。

HELLSINGは、その一つの典型ではないだろうか。


アーカードという「最強の敗北者」

HELLSINGの主人公・アーカード。

彼は、物語世界でも最強クラスの存在だ。

数百年を生きる吸血鬼。

銃弾を受けても、身体を破壊されても、簡単には倒れない。

圧倒的な力を持ち、敵を次々と蹂躙していく。

普通の物語なら、こういうキャラクターは「勝利」を求める。

もっと強くなりたい。

もっと敵を倒したい。

自分こそが最強であることを証明したい。

しかし、アーカードは少し違う。

彼が求めるのは、自分を本当に倒せる存在だった。

これは、奇妙な逆説である。

最強であることが、彼にとって幸福ではない。

不死であることが、祝福ではない。

むしろ、それは孤独であり、呪いでもある。

そして、彼が最後に求めるものは、自分より強い「人間」だった。

HELLSINGの根底には、人間讃歌がある。

怪物が人間を見下すのではない。

怪物のほうが、人間という存在の強さを理解している。

人間は弱い。

傷つく。

死ぬ。

失敗する。

それでも立ち上がる。

だからこそ、人間には怪物にはない強さがある。

アーカードは、そのことを知っている。

だから最強の怪物でありながら、人間に敗北する可能性を求める。

これは、単純な「最強キャラクター」の物語ではない。

最強であることの孤独と、人間であることの尊さを同時に描いたキャラクター。

それがアーカードなのだ。

HELLSINGの「人間讃歌」が、単なる綺麗事に見えないのは、その思想を最強の怪物自身に語らせているからだ。

怪物が、人間を讃える。

その逆説が、作品に不思議な深みを与えている。


少佐という「戦争を愛した男」

そして、アーカードとは正反対の存在として登場するのが、少佐だ。

ナチスの残党組織「ミレニアム」を率いる男。

彼の思想は極端だ。

彼は戦争を手段として利用するのではない。

戦争そのものを愛している。

勝利するためだけではない。

領土を得るためでもない。

政治的な目的を達成するためでもない。

戦争という行為そのものを求める。

「私は戦争が好きだ。」

この有名な台詞から始まる少佐の演説は、HELLSINGを象徴する場面の一つだ。

普通の物語なら、悪役には何らかの「理由」が与えられる。

復讐。

正義。

過去の悲劇。

理想。

世界を変える目的。

しかし少佐は、そうしたものを超えている。

彼にとって戦争は、目的ではなく、存在そのものなのだ。

だから恐ろしい。

そして、だからこそ強烈に記憶に残る。

HELLSINGのキャラクターたちは、単なる善悪の駒ではない。

それぞれが、自分自身の思想を持っている。

自分の美学を持っている。

自分が何者なのかを知っている。

アーカードは怪物として生きる。

少佐は戦争を愛する。

インテグラは人間として、ヘルシング機関を背負う。

セラスは人間と吸血鬼の間で、自分自身の生き方を探す。

アンデルセンは信仰のために戦う。

誰もが極端だ。

誰もが濃い。

だから、誰か一人だけが浮いているわけではない。

世界そのものが濃い。

これこそがHELLSINGの魅力だと思う。


テレビ版では描かれなかった物語を、OVAが描いた

HELLSINGのテレビ版とOVA版を比較すると、アニメ化というものの難しさが見えてくる。

2001年のテレビ版は、原作連載中の作品を13話のシリーズとして構成する必要があり、途中から原作とは異なるストーリーへ進んだ。

それに対して、2006年から発売されたOVA『HELLSING Ultimate』は、原作により忠実な映像化を目指した。

ここには、二つの異なるアニメ化の方法がある。

一つは、放送時点で成立する一本のアニメ作品として再構築する方法。

もう一つは、原作そのものを可能な限り忠実に映像へ移す方法。

どちらが正しいという話ではない。

しかしHELLSINGの場合、後者によって、原作が持っていた「濃さ」がより強く映像化された。

ナチスの残党。

吸血鬼の軍団。

宗教的対立。

大量虐殺。

極端な思想を持つ登場人物たち。

こうした要素を含む作品だからこそ、原作の世界観そのものを映像にするには、相応の時間と制作体制が必要だった。

OVAは、そのための器になった。

制作会社は途中で変わった。

発売延期もあった。

それでも2006年から2012年までの6年間をかけて、全10巻が完成した。

そして完成した作品は、原作により忠実なHELLSINGとして、多くのファンに受け入れられた。

ここで大切なのは、

「テレビ版が失敗だった」

ということではない。

むしろ、

一つの原作に対して、異なるアプローチの映像化が存在した。

その結果、後から原作に忠実な形で再構築されたHELLSINGが生まれた。

これは、日本のアニメーション史の中でも興味深いケースだと思う。


「6年間」という時間が生んだもの

HELLSINGのOVAを語るとき、私は「6年間」という時間に惹かれる。

2006年。

最初のOVAが発売された。

そして2012年。

最後の第10巻が発売された。

6年。

もちろん、商業作品だから、制作には予算が必要だ。

市場がある。

販売する必要がある。

採算も考えなければならない。

だから「愛だけで作った」と単純化することはできない。

それでも、これだけ長い時間をかけて、一つの作品を原作に忠実な形で完成させたことには、制作側の強いこだわりを感じる。

効率だけを考えれば、途中で妥協することもできただろう。

しかし、HELLSINGのOVAは最後まで続いた。

その結果、原作の物語を最後まで映像化することができた。

私は、ここに「作品への誠実さ」というものを見る。

商業作品だからこそ、効率は重要だ。

しかし、文化を残すのは効率だけではない。

「ここだけは譲れない」という人間のこだわりが、作品を後世に残すことがある。

HELLSINGのOVAは、そのことを思い出させてくれる。


クールジャパンが学ぶべき「濃さの美学」

HELLSINGが世界に届けたものを、一言で表すなら。

私は「濃さ」だと思う。

薄めない。

妥協しない。

キャラクターの論理を最後まで貫く。

世界観を最後まで貫く。

台詞を最後まで貫く。

そして、作品そのものの美学を貫く。

海外向けだからといって、わかりやすくする。

海外の人にも理解できるように、角を取る。

文化的な違いを考えて、刺激の強い部分を薄める。

もちろん、そうした工夫が必要な作品もある。

しかし、HELLSINGが示したのは別の可能性だ。

「わからない人には、わからなくてもいい。それでも、これが自分たちの作品だ」と言い切ること。

その濃さを求める人間は、世界のどこかにいる。

そして、その誰かに届けば、作品は国境を越える。

ここにクールジャパンの面白さがある。

クールジャパンという言葉を聞くと、

「日本らしい文化を海外へ輸出する」

というイメージが強い。

しかし、それだけではない。

HELLSINGを見れば分かる。

素材は西洋だ。

ドラキュラ。

英国。

ナチス。

キリスト教。

ヨーロッパの歴史。

それを日本人が取り込み、日本の漫画という表現方法で再構築した。

つまり、

「日本文化を世界へ」ではなく、「世界の文化を日本の文法で再構築し、それを世界へ返す」

ということもできる。

これは、クールジャパンを考えるうえで、かなり重要な視点ではないだろうか。

日本文化とは、日本だけに存在する素材のことではない。

日本人が何を見て、何を吸収し、どう表現するのか。

その「料理の仕方」そのものにも、日本文化は宿る。

HELLSINGは、西洋のゴシックホラーを日本の漫画として料理した。

そして、その料理が世界中のファンに届いた。

そこに、クールジャパンの一つの可能性がある。


「広く浅く」ではなく、「深く刺さる」

クールジャパンを考えるとき、もう一つ重要なのは「誰に届けるか」ということだと思う。

すべての人に好かれる必要はない。

誰にでも分かる必要もない。

誰にでも楽しめる必要もない。

HELLSINGは、万人向けの作品ではない。

残酷な描写がある。

過激な表現がある。

宗教や戦争を扱う。

ナチスという極めてセンシティブな題材も扱う。

それでも、そこに強烈に惹かれる人がいる。

そして、その人たちは作品を忘れない。

文化の力は、「広く浅く」だけでは測れない。

「深く刺さる」という力もある。

一万人に何となく好かれる作品と、一万人のうち千人が人生で忘れられない作品。

どちらが文化として強いのか。

単純には決められない。

しかし、後者のような作品が世界中に存在することで、日本のコンテンツ文化は厚みを持っていく。

HELLSINGは、その「深く刺さるクールジャパン」の代表例の一つだと思う。


アーカードは、今もどこかで戦っている

HELLSINGの最後。

アーカードは、一度物語から姿を消す。

そして長い時間を経て、再び帰還する。

その結末は、単なる吸血鬼の物語の終わりではない。

不死の怪物が、人間という存在の強さを認める。

最強の存在が、自分を倒せる存在を求める。

怪物が、人間に敗北することを望む。

そこには、HELLSINGという作品の最大の逆説がある。

化け物が、人間を讃えた。

そしてもう一つ。

「描くことが難しい」と思わせるほど濃密だった作品が、時間をかけて原作に忠実な映像作品として完成した。

これもまた、逆説だ。

簡単に作れないからこそ、価値があった。

誰にでも分かる作品ではなかったからこそ、深く刺さった。

日本文化そのものを題材にしていなかったからこそ、日本の漫画表現というものの強さが見えた。

HELLSINGは、日本的な素材を世界に売った作品ではない。

世界の文化を、日本の漫画というフィルターを通して再構築し、それをもう一度世界へ返した作品だ。

そこに、私はクールジャパンの一つの本質を見る。

クールジャパンとは、政府が名前を付けて作るものだけではない。

誰かが好きなものを、好きなように、徹底的に作る。

その作品が、国境を越えて誰かの心に刺さる。

その積み重ねの先に、いつの間にか「日本の文化」として世界に認識されているものがある。

アーカードが讃えたのは、人間の弱さだった。

弱いからこそ、立ち上がる。

死ぬからこそ、生きようとする。

失敗するからこそ、もう一度挑戦する。

そして、HELLSINGという作品もまた、そんな人間の営みの中から生まれた。

化け物が人間を讃えた。

そして、日本の漫画が西洋の怪物たちを料理し、世界へ送り出した。

その結果、世界中のどこかで、誰かがHELLSINGを見つける。

「なんだ、この作品は」

そう思いながらページをめくる。

映像を見る。

そして、いつの間にか、その世界から抜け出せなくなる。

それこそが、文化が国境を越える瞬間なのかもしれない。

薄めなくていい。

媚びなくていい。

ただ、自分たちが面白いと思ったものを、最後まで作り切る。

HELLSINGが残したものは、吸血鬼や戦争の物語だけではない。

そこには、クールジャパンという言葉が生まれるずっと前から存在していた、

「好きなものを、徹底的にやる」

という、日本のコンテンツ文化の強さが刻まれている。

そして今日も、どこかでアーカードは戦っている。

怪物として。

人間を讃える者として。

そして、国境を越えて誰かの心に残り続ける、ひとつの日本漫画の主人公として。


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