AIサポートの罠と再帰的ディストピアへの抵抗
AI技術による救済??
現代の日本においても、ビッグデータとAIはもはや未来の技術ではない。民間経済における実装が成功を収めるほど、日本政治の意思決定プロセスにおいても、非効率な政治家同士の議論を廃し「データに基づく客観的な行政」を実現すべきだという圧力が強まる。
しかし、高度な専門性と利便性を盾にするAI権力に対峙する際、私たちがその知的限界を補完するために「技術による救済」を求めれば、その依存こそが新たな隷従を招く。民主主義を救うための道具が、市民の自律的な批判精神を骨抜きにする「自己家畜化」の装置へと変貌しかねないという再帰的な危機感が必要である。
ポスト・タンの時代
デジタル民主主義を象徴する台湾でも、オードリー・タンという「カリスマの魔法」が解けた後、システムとしての持続可能性をどう担保するかという「ポスト・タン」の試練の季節を迎えている。翻って、日本などでは、台湾の表層だけをなぞり「熟議を支援するAI」を喧伝する病理現象が見られる。一見すると、AIが膨大な資料を要約し、論点を整理して中立的なファシリテーションを行う仕組みは「知的増幅器」に見える。だが、そこには熟議を「計算可能な合意」へと矮小化する危険が潜んでいる。
AI利用の意味する再帰的な危険性
真に警戒すべきは、「再帰性」がもたらす自家中毒的な危うさである。熟議支援AIは、熟議する市民の言動や反応をリアルタイムで学習する一方で、同時に背後の政治家や官僚機構が下した意思決定の傾向や意向をも吸い込み、それらを「最も受け入れられやすい情報」として精査・加工して市民へと差し戻す。市民はAIが提示した「整理された論点」に基づいて思考しているつもりで、実際にはAIが市民自身の反応と権力の意向を掛け合わせて生成した「鏡像」をなぞっているに過ぎない。
このループの中では、市民の主体的な批判も、権力への牽制も、すべてがAIの学習データとして回収・処理され、最適化された「合意」へと収斂していく。主体と客体、学習と意思決定が互いを喰らい合うこの再帰的なプロセスは、民主主義を「AIが計算した結論」を「市民が自ら選んだ」と錯覚させるための、極めて洗練された隠蔽工作へと転落させるのである。
偶然性による予定調和の打破
クーケルバーグやロザンヴァロンが説いた民主主義の価値を守るためには、AIの利便性を享受しつつも、その操作性を常に疑い続ける「不信の感覚」を維持しなければならない。技術を「救世主」としても「敵」としても神格化せず、その全工程を「不完全で、摩擦に満ち、効率の悪い」市民の熟議の中に繋ぎ止め続けること。この「統制の難しさ」そのものを引き受け、思考の外部としての「偶然」を議場に留め置く泥臭い抵抗こそが、AI時代に人間が主体性を保つための方策ではなかろうか。
