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大学教育の所得向上効果と「教育劣位社会」―ゼロサム/プラスサムの再考と利害構造の可視化


そもそも大卒者の所得の源泉とは?

 大学教育は個人の生涯所得を高める――この主張は、近年の教育政策議論でしばしば決定的な根拠として提出される。高い教育を受けた個人は、より高い所得を得る。その結果として税収も増加し、政府が大学教育に投資しても財政的には十分に「元が取れる」というのである。しかし、この議論が示す因果関係は、意外なほど素朴であり、さらにその素朴さを意図的に支えている構造が存在するという点を、私たちは丁寧に考える必要がある。

 そもそも、大卒者の高い所得はどこから生まれるのか。生産性の向上という形で社会全体のパイを広げ、その一部が大卒者に帰属しているのであれば、これはプラスサムの世界であり、教育を公共投資として評価することに根拠があることになる。
 しかし逆に、賃金構造や採用制度が大卒者に有利なように制度設計されており、結果として非大卒者の所得が相対的に引き下げられているだけだとすれば、それはゼロサムの世界である。大卒者の所得増加分は、他の階層からの移転によって生じていることになり、教育が社会全体にとって「得」かどうかという議論とはまったく別物になってしまう。

大卒所得源泉を曖昧にする

 この両者を区別することは実は非常に難しい。しかし難しさにもかかわらず、教育経済学や高等教育政策の議論の多くは、この区別を曖昧にしたまま、「大卒者の所得が高い」という表層的な事実に議論の根拠を置く傾向が強い。そして、こうした議論を積極的に主張しているのは、往々にして大学教員や研究者、大学行政の関係者など、大学教育の拡大から直接的な利益を受ける立場の人々である。彼らが教育投資の公共的価値を主張すること自体は否定すべきではないが、彼らがその議論の帰結によって恩恵を受ける利害当事者であるという事実は、議論の透明性を確保するためにも、明確に意識されるべきである。

教育劣位の日本社会

 もっとも、この「教育投資の公共性」を真っ直ぐに信じて語る姿勢は、日本社会において必ずしも広く共有されていない。むしろ一般市民の意識はそれと対照的で、大学教育は「親の責任」「家計の問題」であり、国が税金を使って支援するべき対象とは見なされていない。奨学金制度は依然として借金型が中心で、授業料減免への理解も強くはない。いわゆる「高等教育は自己責任である」という価値観が、社会の根底を支えている。

 この乖離を分析する上で示唆的なのが、矢野眞和、濱中淳子、小川和孝らが論じた「教育劣位社会」という概念である。教育劣位社会とは、教育の公共的価値が適切に認識されず、教育が社会の将来を支える投資であるとは理解されず、親の努力や家計の負担能力に応じて選ばれるサービスである認識され、子どもの教育機会がそれらの要因によって左右される構造が放置される社会のことだ。教育は社会的に共有されるべき価値ではなく、家庭の私的責任へと押し込められる。その結果、教育に対する公的支出の拡大には常に冷たい目が向けられ、「払うのは国ではなく親である」という考えが自然なものとして受け入れられていく。

 こうした「自己責任の教育観」が依然として優勢であるために、大学関係者がいくら「教育は投資として回収可能だ」と訴えても、社会に強い支持は広がらない。むしろ、「所得が上がるなら、それは本人のメリットであり、国が面倒を見なくてよいだろう」という反応が返ってくる。これは、日本における教育価値観が、欧州型の「社会の持続性を支える人的資本」ではなく、依然として「家計の努力による階層再生産」として理解されていることの表れである。

大卒者は増えているが、経済は停滞

 さらに、平成から令和に至る長期的な時間軸を眺めると、大学進学率の上昇とマクロ経済の停滞という不都合な現実がある。大卒者の数は増え、大学教育は社会に広く普及した。しかし日本経済全体の生産性はあまり伸びず、非正規雇用の増加により、賃金全体の伸びは鈍かった。もし大学教育が社会全体の生産性を押し上げていたのなら、これほど長期にわたる停滞は説明が難しいはずである。

 この点により、大卒者の所得増加は必ずしも社会全体のプラスサム効果によるものではなく、就職市場におけるスクリーニング効果と非大卒者の所得環境の劣化圧力によって説明することが可能であることが示唆されている。つまり、大卒者が「賃金を押し上げた」のではなく、非大卒者が「賃金を押し下げられた」結果として、大卒者の方が高く見えるという可能性を排除できない。

 それにもかかわらず、「大学教育は税収増加によって投資の元がとれる」といった議論が、一般世論と遊離する形で、大学関係者を中心に繰り返されるのは、そのような主張をする者が制度の内部者であるからだという「背景の利害構造」を醸し出しているように見えてしまう。ここに一般市民との認識の溝が生じる。市民は大学教育が社会全体の利益をもたらすと直感的に信じていない。仮にプラスサムであったとしても、その利益を大卒者だけが享受するのであれば、私益として教育コストは自己負担すればよいと考える。だからこそ、無条件の公的支出には慎重であり続けるのだ。

高等教育に公的価値を取り戻すには?

 大学教育が本当に社会全体の利益をもたらすのなら、そのメカニズムを丁寧に解明する必要がある。大卒者の所得がどこから来ているのか、それは生産性向上によるプラスサムなのか、それとも格差構造の再編というゼロサムなのか。どの層の、どの種類の大学教育が社会的価値を生み出しているのか。それらを本気で問い直さなければ、大学教育の公共性は社会から理解されず、「教育劣位社会」は続く。
 全ての高等教育機関、そしてそれぞれの機関内の学部構成を満遍なくサポートする「護送船団方式」での高等教育コストの公的負担増では、間違いなく受け入れられないということだ。

 高等教育に公共的価値を取り戻すためには、まずこの構造を可視化しなければならない。教育が家計の私的責任を超え、社会の未来を築くための共有資源であるという認識を広げることができるように、事実をあぶりだすことこそ、本当の教育政策の出発点なのではなかろうか。

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