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貸本屋は電子書籍の夢を見るか

 ある日、私は電子書籍端末を開き、数百冊の蔵書を眺めていた。
 もちろん、それらは本当の意味での蔵書ではない。
 その事実に気づいたのは、ある作品が配信停止になった時だった。昨日までそこにあった本が、翌日には消えている。紙の本なら本棚に残り続けるはずのものが、まるで最初から存在しなかったかのように失われる。

 その瞬間、私は奇妙なことを考えた。
 電子書籍は、本のふりをした何かなのではないか。

 戦後の日本には貸本屋という制度があった。人々は本を買うのではなく借りて読んだ。限られた数の本が町の中を循環し、多くの読者の手を渡り歩いていく。所有より利用が優先される世界だった。

 電子書籍のサブスクリプションサービスもまた、同じ論理で動いているように見える。読者は月額料金を支払い、膨大な書籍群へのアクセス権を得る。しかし、そこにあるのは本ではなく利用許可である。契約が切れれば読めなくなり、サービスが終われば蔵書は蒸発する。

 違うのは、その事実が巧妙に隠されていることだ。
 貸本屋の本には、前の読者の痕跡が残っていた。少し擦り切れた表紙。折られたページの角。ときには鉛筆で書かれた走り書き。本は複数の人間の時間を背負っていた。

 電子書籍には傷がない。
 誰も読んでいない本と、一億人が読んだ本とでも、見分けがつかない。そこにあるのは永遠に新品のデータである。
 とはいうものの、電子書籍もまた「貸し出されて」いる。本そのものではなく、読むという体験が流通しているのだ。もし貸本屋の本が物理的な循環だったとすれば、電子書籍は情報の循環である。

 すると奇妙な疑問が生じる。
 われわれは本を読んでいるのか。
 それとも、本を読んでいるという経験だけを消費しているのか。
 かつて本棚は個人の記憶装置だった。どの本を持っているかは、その人が何を学び、何を考え、どんな人生を歩んできたかを語っていた。

 しかし電子書籍の世界では、蔵書はサーバーの向こう側にある。記憶は外部化され、所有は利用権へと変換される。
 本棚は消えた。
 だが、人々は相変わらず本を読んでいる。
 ちょうど、本物の羊が絶滅した世界で、人々が電気羊を飼い続けたように。
 本物と代用品の境界が曖昧になったとき、人間は何を失い、何を保存しようとするのだろう。
 電子書籍は本ではないのかもしれない。
 だが、紙の本が担っていた機能の多くを受け継いでいる。
 そして、かつて貸本屋が果たしていた役割もまた、その内部で再演している。

 未来の技術はしばしば過去の制度を蘇生させる。
 電子書籍システムが巨大なデータセンターの中で夢見ているもの。それは無限の複製でも、完全な情報流通でもない。
 町角の小さな貸本屋で、人から人へと手渡されていた読書の記憶なのかもしれない。
 もしそうだとすれば、貸本屋は電子書籍の夢を見る。そして電子書籍システムもまた、失われた貸本屋の夢を見続けているのである。

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