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ぬるま湯のやさしさ

残業が続いていた。
街はすっかり夜になっている。

早く電車に乗って
アパートに帰った方が良いのは
分かっている。
しかし
駅の階段を上がり下りし
混雑する中を歩いて
そのたびに他人の衣服が自分と擦れる。
あの感覚を思い出すと
どうしても、向かう気になれない。

電車に乗った途端
明日の朝を迎えるルーティンに入るような気がして
それも、嫌になる。

ひと駅分、ふた駅分、ずるずる歩く。
パンプスの中にぎっしり詰まった
むくんだ足が痛い。

ビルの角に、小さな大判焼き屋があった。
店には腰が曲がった老婆がいて
目が合うと、笑顔で「いらっしゃい」と言った。

あんこ入りの大判焼きを一つ、注文した。
100円という値段も魅力だったし
甘いものが食べたい気分でもあった。

道路から陰になる場所の小さい椅子。
そこに腰を下ろした。

大判焼きを齧った。
驚くほど熱く、甘かった。
それを自覚した途端、急に涙がこぼれ始めた。
止めようにも、理由が分からないので止めようがない。

嗚咽の声が聞こえたのか店から老婆が出てきて
私の頭を撫でながら、慰めはじめた。

老婆の慰めはありきたりで、良くある話すぎて
何も残らず通り過ぎて行った。
むしろ、ちょっと不快ですらあった。

涙は止まり大判焼きの熱も冷めた。
最初ほどの美味しさも感じられず
むしろ喉に詰まって苦しい。
老婆に見られている。
最後の方は無理やり気味に口に放り込んだ。

老婆は帰り際に私の手に飴玉を握らせた。

それは、やけに大きい玉のような飴だった。

口の中に飴玉を放り込む。
なめている間ずっと
自分が甘やされているような気持ちになった。
階段を上るときも、人とすれ違う時も
口の中の甘さを舌で確認すれば平気だった。

電車に乗る頃には飴は消えていたが
舌の上の余韻はずっと残っていた。

それから、残業があった時は頻繁に
大判焼き屋へ通うようになった。
4回目の時に老婆から名前を聞かれ、答えると
次からは「ちゃん」付けで呼ばれるようになった。

休日にテレビを見ていると、老婆の店が紹介されていた。
「昭和レトロで人気の店」
レポーターとして行っていた
最近人気の若手俳優も行きつけらしく
老婆とは、愛称で呼び合う仲のようだった。

大判焼き屋が入っているビルは老婆の持ち物であること。
皆に、安く美味しいものを食べて貰いたいという気持ちから
大判焼き屋を始めたこと。

「悩んでいる若者も沢山この店に来てくれる。
 この大判焼きを食べて少しでも元気になってくれれば嬉しい」

老婆を称賛するコメントで中継は終わり
地方の動物園での赤ちゃんラッシュの話題へと移っていった。

老婆の店へ行くのを止めた。

だが、その後も辛いことがあるたびに
老婆の姿が頭をよぎった。
頭の中の老婆はうわつくような慰めの言葉まで
私に投げかけてくるようになった。
ひどく苛立ったり涙ぐんだりした。

次の残業の夜、老婆の店を訪ねた。
老婆は私のことを覚えていて
再び来たことを、喜んでいる様子だった。
病気でもしていたのかと心配するので
「ダイエットしていたから」と答えた。

大判焼きを買う。
老婆はカスタードの大判焼きをおまけとして、くれた。

外の椅子に座って食べていると
老婆が話かけにやってきた。
ダイエットの話を聞いたせいか
健康にまつわる話から
戦後の食糧事情まで聞かせてくる。

大判焼きは冷めてくるし
カスタードと餡子を立て続けに食べるのは
ちょっとした苦行だ。
やけに甘さが脳に響いて、眩暈がしてくる。

だが、まあ、これはこれで美味しい。

頭の中の老婆が頷いた。





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