冒険の書 孫泰蔵 と バイオレット・エヴァーガーデンが僕にとって重なってしまう。学び、知る喜ぶを共有する物語に感じられるのです。
冒険の書 表紙を開くと言葉を投げかけられた。
「本当の発見の旅とは 新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ。」

かっこいい言葉に背中を押されてビクビクと本を読み始めている。それでも新しいことを思いついてしまうと、どうしてもやらずにいられない自分がいます。私も著者と同様に新しいことに気づくのだろうと思う。そしてどうしてもやらずにいられない世界に足を踏み込み、また新たなミッションを担うことになるのかといささか気が重い。この言葉は、私の中にずっとあった「どうしてもやらずにはいられない」衝動に火をつけた。本に導かれるまま、私は教育や社会の固定観念に縛られた世界から、自由を探す旅へと足を踏み入れた。
「学ぶってことはすごい楽しいもののはずなのに、どうして学校の勉強はつまらないだろうか?人生はワクワクするものなのに、どうして不安を感じながら生きなければならないだろうか?」
この本は、その答えを探す旅だ。著者は、「ガマンして枠にハマって生きるのではなく、飛び出そう」と強く訴えかける。その出発点は、教育の形そのものにあると言う。教育を提供する側の都合ではなく、学ぶ側の都合に変えていこう、というメッセージだ。虚構としての能力を学ぶ、パノプティコンの監獄のような学校の枠を飛び出す旅の途中で著者が最初に出会ったのは、学校の先生ではない「ミュージアムディレクター」だった。彼は教え覚えるのでもなく、自ら学びたいことを選び、自ら学ぶことの重要性を語る。
いくら知識を詰め込んでも、AIがすべての情報を記憶し、処理する時代が来れば、人間は価値を失う。教えるという概念すらなくなる未来が、10年後、20年後に待っているのだ。 と
しかし、私は不安を覚えた。AIを使いこなすために、人はどんな能力を身につけるべきなのだろう? しかし著者ははいう。
これは生き残りのためのサバイバルなのか? 勝ち組・負け組という生存競争のために、私たちは「武器としての学び」を手に入れようとしているのか?
そして、著者は日本の学校教育の核心をえぐり出す。
学校の目的
①ちゃんと食べていける労働者になるための技能習得
②社会の一員とし、規律を守る人間になるためのしつけ
③良い人格を持つ立派な人間作り
自分の思いを押さえ込んで、社会に合わせないと生きていけないような狭い社会を作ったのは、僕たち大人なのです。パノプティコンのように、監視と賞罰、そして試験という仕組みの中で、子供たちは規律を守るよう訓練された人間を作り上げるのだと。学校の目的は、労働者になるための技能習得、社会の一員としてのしつけ、そして立派な人間作りという、大人側の都合で決められてきた。 私たちは、子供が望むことを反映するのではなく、無垢で守るべき存在と勝手にレッテルを貼ってきた。そして、彼らが生きる社会を、窮屈なものにしてしまったのだ。
ここで著者は、教育における最大の「虚構」について語り始める。日本の心理学者、小坂井敏晶

の言葉を引用して、こう断言する。
「能力格差はほぼ偶然で決まるにもかかわらず、学校は自己責任論による格差正当化に大きく寄与してしまっている」
私たちが信じてきた「能力」は、結果論と他人との比較によって生み出されたフィクションに過ぎないというのだ。努力すれば報われる、能力を高めれば幸せになれる、という信仰は、人々を競争と疲弊に追い込んできた。 メリトクラシーの先に、私の目指す社会 ここまで読み進めて、私は、この著者の議論が、マイケル・サンデルが語るメリトクラシー(能力主義)の問題に深く通じていることに気づいた。 サンデルが指摘するように、能力主義はたしかに機会の平等をもたらしたが、同時に、生まれながらの「運」によるアドバンテージを無視し、勝者の傲慢さと敗者の屈辱を生み出す。著者は、その問題点をさらに推し進めて、「メリトクラシーは最終的に人を不幸にしてしまう社会だ」と断言する。 そして、この本の後半で語られる「エドテック」の最終形――AIが一人ひとりの学習者に最適化されたコンテンツを提供する適応学習システムは、まさに私が前橋市で取り組んできたGIGAスクール構想の、その先にある姿だと直感した。 教員の負担を軽減しながら、生徒一人ひとりに寄り添う教育を実現したいと私が考え、進めてきた「個別最適化された授業」。著者が語るAIによる自動化は、その理念を最大限にまで高めるものだ。 そして、著者は希望に満ちた結論を述べる。
「メリトクラシーが人間の能力で序列を作るとするならば、しばらくすれば、人工知能が最高の能力者としてビジネス世界のヒエラルキーの頂点に立つだろう。(中略)その瞬間、人間は初めて『働く役割』を全て機械に委ねることになるのだ。」
能力への信仰が、人間の機械化によってもたらされた、すなわち人間の労働を楽にするために、生まれた機械が人間をただの機械の操作者としての人間の機械化に取り替えられてしまったのだ。そして機械化された人間も、成果で評価されるようになった。だから人々は性能が良くて壊れなくて、使い勝手が良い存在としての能力をアップデートし続けなければならなくなった。それがリスキリングなのだ。人間を機械の操作者と言う奴隷に置き換えてしまったのだ。人間の自由になりたいと言う願いがあり、それが残念ながら結果を残念な結果をもたらしたと言うことだ。
これは決して皮肉などではない。人間は労働という宿命から解放されるのだ。この時初めて、私たちは「高収入になるため」ではなく、「自分の喜びのため」に学びを続けられる存在になるのではないだろうか。 この結論は、私が信じる松下幸之助の無税国家論と完全に一致する。国家が生産性を高め、国民から税金を徴収せずとも運営される「収益分配国家」という哲学。私が里山資本主義にこだわるのも、この効率と合理性を追求した先に、誰もが幸せを追求できる社会が到来すると信じているからだ。
学校のいじめや不登校が改善しない。ほとんどの子供がいじめを経験する。学校の教室が怖くて学校には行きたくないとの話は絶えない。たとえ子供がもう行きたくないと拒否しても、「学校に行かないで、将来苦しむのはあなた自身なんだよ」と説得されも課題は解決しない。同級生と何も共有しないで、長い時間、学校にいる事だけが求められる。それが現実だ。インターネットで何でも学べると言うと、学校教育を馬鹿にするな。家で勉強するだけでは社会性を身に付けられないといったコメントで炎上していると言う記事を見たね。本には素晴らしい教材がいっぱいあるし、知識を得るということだけだったら、確かに行かなくてもいい。学校に行く事ということが普通でなくていいと私は思う。フリースクールも通信在宅学習も用意するべきだ。
不登校という言葉がなくならない限り、「学校に行くべき」との命題は解決には向かわない。むしろ映画マトリックスのあの繋がれた仮想空間に繋がれ続ける人になるのか、気づいて、そこから脱出する人になるのかが選べる時代も近い。
本来、学び、遊び、働きは1つのものだったのに、別のものになってしまった。遊びにも意味がある、働きは楽しみでもあるべきだ。生産性なら単位時間あたりにどれだけの価値を生み出されるかで言うならば、コンピュータには勝てない。
ほんとにこれで子どもたちは自由に自分の学びを続けられる。明け方まで望遠鏡で宇宙を見るのもよし、ゲームを続けるのも、よし、森で昆虫を追いますのもよし、もう何をやっても、お母さんに宿題やったの?と言われなくて済むのだ。 今まで僕たちが学校で行っていた教育と言う仕組みに自分を合わせることができなかったすべての人たちに言います。もうここでは知能指数によって障害者を区分する必要などなくなってしまいましたね。
夢中になれる何かを見つけてみよう!
自分の幸せの道を見つけていいんだよ!
そして社会はその応援をしてるよ。
ここまで書いて バイオレット・エヴァーガーデンが僕にとってなんて引っ込まれる世界だったのかと思いだす。この本と全く関係ないと思われるでしょうが、私には学び知る喜ぶを共有する物語に感じられるのです。「愛してる」の言葉の意味を知るために長い旅を経て、彼女はそれを理解した。そして小さな果樹園のある島で、その愛をもっと深く知るために暮らす。そして彼女が残した手紙が世代を超えてその愛をつなぎ続けてきた。人にとって1番大切なものは何なんだろうか?地位や名誉や贅沢ではなく、「愛だけで人は幸せになれる」って人生を彼女が自ら選んだ物語だからだ。人が幸せになるために生まれ、生き、そして死んでいく。どうすれば幸せになれるだろうか?
僕にはやらなくてはいけない。僕の学びを実践しなければいけない使命がある。そのために自らの全てを費やすことが幸せへの道だ。
僕が冒険に出発するきっかけを与えてくれた本たち
#冒険の書
#AI時代のアンラーニング
#孫泰蔵
#断絶の時代
#シンニホン
#ユヴァルノアハラリ
#プロラリティ
