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ブロッコリーを茹でるのを褒められたはなし


「お前はブロッコリーを茹でるのがうまいな」

父がポツリと呟いた。
その日の食卓には、ブリの照り焼き、ひじきの煮物、切り干し大根、茄子のお味噌汁。
私なりに父好みの料理を並べたつもりだった。微妙なところを褒めてくれてありがとう。

こうして私は、ブロッコリー担当になった。

母が亡くなり、父と二人暮らしを始めて数ヶ月が経った頃のことだった。

◼️


我が家では麺類は長年、父の担当だった。うどん、ラーメン、パスタ、蕎麦。蕎麦にいたっては、定年後に蕎麦打ち教室に通ったものの、二回で挫折。正直味は微妙だった。

蕎麦以外でも、父の料理は独創性が高かった。前衛的といってもいい。
真夏に常温の飲み物と、「さしすせそ」の作り出す平凡をこよなく愛する私の胃腸は、思春期の父に向ける感情と同じくらい、そうした料理たちに戸惑っていた。

一人暮らしをするようになってからは、父の料理を食べる機会はほぼ無くなっていたけれど、たまに実家でうどんつけ麺パーティーが開催されると、懐かしく思いながら手をつけていた。
誰かが自分のために、手をかけてくれることの有り難みは、家を出てから身に染みていたからだ。

仕事を終えて、いつもとは違う電車に乗り実家に戻る。

「ただいま」
「おかえり」

そこに母の声は重ならない。
父に出迎えられて、食卓には作りたてのご飯が並んでいる。とてもありがたい反面、父はほぼ食べなくなっていた。父の好物を作っても、大好きな鰻を買ってきても、食べる量が明らかに減っている。

母の味には敵わない。それはわかっているけれど、生きる気力が希薄になっていることが可視化されているようで、きれいに片付いたキッチンで途方にくれながら姉に相談をした。

「根気強くやるしかないね。あと、お父さんが揃うまでは食べないとか、自分がいないとって思わせるといいと思う」

父が食卓につくまで待つ。
そんな日々を続けて、少しずつ食欲が戻ってきた時には心からほっとした。肌艶が良くなっていく姿を見て、私自身もようやく悲しみを実感することが出来た。


ときどき、父が料理を作ってくれたときに、私は大袈裟に喜んで見えたと思う。
父は努力家なこともあり、どんどんその腕前を上げていくのを、私の胃腸も驚きつつも安堵していただろう。

家の片付けをしていて見つけた母のレシピノートは、ひじきチャーハン。生姜たっぷりの唐揚げ。
鶏そぼろご飯などが書かれていた。
母の作る鶏そぼろご飯は、かなり味が濃く、これ以上ないくらいの茶色だった。思わず、私はレシピの内容を確認する。

【鶏そぼろご飯】

鶏ひき肉 200g
生姜 適宜
醤油 適宜
酒 適宜
しばらく様子を見る
いい塩梅で塩胡椒


ノートは全てがこんな調子だった。
そしてなぜか、余白の部分には縦ロールのお姫様が描かれていた。なぜここにいるのか理解できない。
ちなみに、彼女は電話のメモの隅っこや、母の家計簿にもたびたび登場していた。この情熱をレシピに向けて欲しかった、と父とも話していた。
母はあんこをおかずに、白米を食べる人だったので、こういうこともあるだろうと私たちの中では決着がついた。


◼️



一緒に暮らし出して数ヶ月。
少しずつ元気になってきた父と、近所を散歩がてら、食材を買いにいくのが週末の日課になっていた。歩きながら、私たちはよく母の話をしていた。

「ここ、母さんときたんだよ」
「これは母さんが好きだったんだよね」

父はスーパーのカゴに、母の好きだった柿を見つけるたびに入れていく。
柿は消化が悪いから食べられない、という私に、自分が食べると言っていたけれど、そこまで柿を好きじゃないのは知っていた。


それ以外にも沢山話をした。
姉の結婚式で緊張のあまりガムを出し忘れて、ガムを噛みながら早歩きでバージンロードを歩き、姉が服の裾を掴んだこと。


妹の結婚式でも緊張で眠れず、まさかの写真撮影のときに不在で、慌ててホテルの部屋のドアを叩いたこと。少しやつれた表情の家族写真が、居間に飾られている。


「お父さん、家を手放してお姉ちゃんのところに行こうと思う」

その言葉は突然だった。
でも、並んで散歩をしたときからわかっていたのかもしれない。この家は思い出が多すぎる。


そこから、不動産会社との打ち合わせや引越しの準備など、慌ただしい日々が過ぎていった。
家を購入したときの担当者の名刺を父はずっと保管していて、またお願いしたいと連絡をしたそうだ。そういうところは昔から変わらない。


想像していたよりも早く買い手が見つかり、実家じまいと引越しで忙しくなった。立ち止まり、考える時間がなかったのは、かえってよかったのかもしれない。

もうその頃には、話しながら涙ぐむことはあっても、憔悴しきった父の顔を見ることはなくなっていた。見せないようにしてくれていたのかなと今は思う。


「さあ、じゃあ行くか」


家にはまだ家具が一部残っていたけれど、まとめて業者にお願いした。最後に、家を出る前に、いたるところの写真を二人で撮った。

壁についた傷。机に貼られた昔のアイドルの半分剥げたシール。食器棚に残った、長年茶色い食事をささえてくれた器たち。

ベランダから見える景色。引越し先に持っていけなかった母の鉢植え。
私が一人暮らしの家に帰宅するときには、見えなくなるまで手を振ってくれた、両親の並んだ姿が目に浮かぶ。

そんな、私たちの何十年かの全てを収め、玄関のドアを開けた。家族でよく訪れた、町中華でランチを食べて、駅のホームから家の方向の写真も撮った。

「なんだかあっという間だったな」
「そうだねえ」

いくつかの乗り換えをして、滑り込んできた湘南新宿ラインに乗り込み、父は姉の家へ、私は新居へと向かう。二人並んでしばらく、どうでもいい話を続けていると、私の乗り換え駅がアナウンスされる。ここが分岐点だ。

「体に気をつけて。また連絡するね」
「そうだな。お前も気をつけて。新生活だな、お互いに」

父は私に握手を求めた。子供の頃、つないでくれた手。あたたかい温もりが掌に伝わってくる。

「色々、ありがとう」
「こちらこそ。ありがとうな」

その言葉には迷いはなかった。電車を降りて、ホームから手を振ると、窓越しにお辞儀をしてくれた父に、あのときは言えなかった。

子供の頃のように喧嘩もしたし、色々な話をしたこの半年は、結構楽しかったよ。

あの、独創的な料理も、ブロッコリーも、この半年も特別なものになることはわかってる。
電車が見えなくなってから新居へと歩き出した。


◼️

それから季節がいくつも巡り、お互い新生活にも慣れて、甥っ子、父からすると孫たちも進学をした。

ランドセルを買ってあげたいけれど、自分で渡せないかもしれないから、と妹にかなり前からお祝いを渡していたらしい。今度、一緒に買いに行くのだという。
そのとき下の子は、まだ二、三ヶ月にもなっていなかった。長期前払費用のランドセル。
姉の結婚式のときから、せっかちなのは変わらない。


私の結婚式に雨が降ったら、「お母さんの嬉し涙かな」と言ったけれど、その場にいた全員が首を横に振った。母はそういった性格ではない。母ならきっと、あんこを降らす。
ロマンティックなのも昔から変わらない。


父には昔から続けている日記があるらしい。もう何十年分になるのかはわからないけど、自分が亡くなったあとに、三人で読んで笑って欲しいと話してくれた。我が家の歴史が詰まっているから、と。


読みたい気持ちも勿論あるけれど、まだまだ先になってくれたらいいと願う。日記には、さすがに縦ロール少女はいないだろうけれど、不思議な発見があったなら、その時はきっと姉たちと顔を見合わせる。



『くれぐれも、
贔屓の野球チームが弱いから
具合まで悪くならないでください。
お姉ちゃん、困ってますよ。

今度、鰻でも贈ります。
ブロッコリーも持っていくね。
それじゃ、また。』

父にラインを送る。
二人暮らしの半年を経て、父とは以前より頻繁にやり取りをするようになった。
「ありがとう」の言葉の後ろには、なぜか怒っている顔文字が続いている。
「怒ってる?」
と聞くと、
「いや?」
と父。
何度か同じことがあり、姉妹で確認したところ、どうやら父は笑顔のマークと勘違いしていたらしい。
泣いたり笑ったり忙しい。母のことを言えないくらいのうっかりで、似ていないようで、似たもの夫婦だった。

父のところに行く前に、「何か食べたいものあるか」と父からLINEが届くことがある。そんなとき、私は決まって「うどん」と返す。
何度教わっても、父の「適宜」で作られたつゆだけは、まだ再現できない。


近況報告によると、今は家庭菜園にはまっていて、ズッキーニの収穫がもうすぐだそうだ。

スマホの中には、「ありがとう(`Д´)」のLINE、茶色っぽい料理と家の写真、そして緑色につやりと光るズッキーニの写真が並んでいる。



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