シュウマツの琵琶湖路|||シン小説 No.026
高齢の母を、琵琶湖一周ドライブに連れて行った。
そんなことを思いついたのは、たぶん、昨年の春先に、母が生死の境を彷徨うほどの大病をしたからかもしれない。
それとも、ただ、時間があって、母が「琵琶湖、昔はよく行ったのよ」と言ったからだったか。
「一周なんて、したことないわね」
助手席で、母はそう言った。
少し嬉しそうだった。
「じゃあ、やってみる?」
「できるの?」
「できるよ。二百キロくらいだから」
「そんなにあるの」
母は驚いた顔をしたが、反対はしなかった。
いずれにせよ、京都生まれ、京都育ちの母が、琵琶湖一周はしたことがない。
京都人は、琵琶湖によく行くことはあっても、案外と一周はしないものらしい。
母の兄、つまりは僕の叔父も、同じようなことを言っていた。
そんな母の話を聞き流しながら、車を走らせはじめた。
大津を出て、湖岸道路を北へ向かう。
琵琶湖は、思っていたよりも大きく、そして静かだった。
海のように見えるのに、波がほとんどない。
「いいところねえ」
母が窓の外を見ながら言った。
「昔はね、このへん、ホテルばっかりだったのよ」
「ホテル?」
「そう。景色がいいでしょう? みんな、ここに泊まりに来たの」
なるほど、と私は思った。
たしかに、こんな場所にホテルがあったら、繁盛しそうだ。
だが、走っていると、ホテルは見当たらなかった。
代わりに目についたのは、墓地と、老人ホームだった。
「……多くない?」
「なにが?」
「ほら、あれ」
私は前方を指さした。
湖を見下ろす小高い場所に、新しい墓地が広がっている。
「あら、本当ねえ」
母は少し目を細めた。
「でも、いい場所ね。見晴らしが」
「そうなんだよね」
絶好の場所だった。
そのあとも、同じような光景が何度も現れた。
湖がよく見える場所。
ひらけていて、風が通る場所。
どう考えても「いい立地」のはずの場所に、決まって、墓地か、介護施設があった。
「ここ、ホテルがあったのよ」
ある地点で、母が言った。
「ほんとに?」
「ええ。ちゃんとしたホテル。レストランもあってね」
そこには今、特別養護老人ホームが建っていた。
近くには、やたらと大きな近代的な病院がそびえている。
屋上にはヘリポートが見えた。
「……変だな」
私は小さくつぶやいた。
「なにが?」
「いや」
言葉にしようとして、やめた。
うまく説明できなかった。
いい場所ほど、そうなっている。
景色がよくて、アクセスがよくて、広さがある場所ほど。
ホテルでも別荘でもなく、墓地や老人ホームになっている。
そして、それはほとんどが新しかった。
「昔はね」
母が言った。
「こういうところ、みんな泳ぎにきたの。海水浴……湖水浴よね」
「うん」
私はアクセルを少しゆるめた。
考えが、ゆっくり形になり始めていた。
もし、この土地が高かったとしたら。
景色がいい。
都に近い。
価値がある。
だが、いまの時代、ホテルは続かない。
別荘も維持できない。
相続すれば、多額の税金がかかる。
けれども、その評価額どおりには売れない。
そういう土地が、たまっていく。
では、その土地は、どこへ行くのか。
答えは、目の前にあった。
人が、最後までいる場所。
そこに行けば、もう出ていかない場所。
私は、湖のほうを見た。
穏やかな水面が、どこまでも広がっている。
観光客はいなかった。
少なくとも、この道にはほとんど。
そのかわり、ここには、別の人間が集まってくるのだろう。
「ねえ」
母が言った。
「ここ、いいわねえ」
「うん」
「最後は、こういうところで、のんびりできたら、いいわね」
私は、少し笑った。
「そうだね」
たぶん、誰かが決めたわけではないのだと思う。
市でも、国でもない。
ただ、この土地に関わった人間たちが、それぞれに一番合理的な選択をしただけで、
気がついたら、こうなっていた。
湖の向こうには、まだ空いている場所がいくつもあった。
同じように、見晴らしのいい、素晴らしい場所が。
平安の世から、長命だの延命だの延暦などと言われてきた土地だ。
ある意味、ふさわしいのかもしれない。
私は、母と湖とを交互に見た。
そして、あらためてハンドルを握り直した。

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