角川春樹さんって実在するんだよね、 だって会って話したんだもの|||シン小説 No.019
2005年頃のこと。
小伝馬町のツカサのウィークリーマンションは、夕方になると決まって、どこかの部屋からカップラーメンの匂いが流れてきた。
壁は薄く、廊下は長く、どのドアも似たような灰色をしていた。
離婚して、仕事も揺らいでいて、けれどなぜか、心だけは軽かった。
怖いものがなかった、と言えば聞こえはいいが、ただ何も守るものがなかっただけ、なのかもしれない。
もてあました暇を、作家の真似事をして過ごしていた、そんな日々。
編集者に紹介された女は、美しかった。
その美しさは、化粧や服のせいではなく、どこか別の世界から一時的に紛れ込んできたような、不自然な透明感だった。
会ったその日に、酒を飲み、食事をし、彼女は当然のようについてきた。
いくら取り繕っても、そんな女を連れてきていいような部屋ではない。
狭い一室、軋むベッドの上で、場違いなのは彼女ではなく、部屋のほうだと感じた。
唐突に彼女は言った。
「春樹さんに会わせたい」
角川春樹。
あの里見八犬伝を撮った人。
あの幻魔大戦を世に出した人。
名前だけが、やけに大きかった。
オフィスは思ったより静かで、そして、男は想像より小さかった。
いや、小さいというより、削ぎ落とされていた。
骨ばった身体。
日焼けした皮膚。
南方の戦地に行って一年ほど経った兵士のような、乾いた顔。
彼は毎日、重い木刀を千回振ると言った。
水風呂に入ると言った。
長渕剛との邂逅を、少年のように熱く語り続けた。
話の中身は、正直よく覚えていない。
けれど、熱だけが残っている。
すごいとは思わなかった。
圧倒もされなかった。
「この人は自分を神話にし続けている」
そう感じた。
物語を作る人ではなく、
物語の中心に自分を置き続ける人。
そのとき、ふと頭のどこかで、能という言葉が浮かんだ。芸能のはじまりみたいなもの。
世阿弥のような存在。
花を咲かせる人。
型を整え、観客の心に一瞬の光を立ち上げる。
だが、違う、とすぐに思った。
世阿弥ではない。
世阿弥の前には、もう一人の名がある。
秦河勝。
芸能の祖と仮託され、
けれど自らの作品は残さない。
ただ回路を開いたと語られる人。
花か、種か。
爆発する熱量。
人を巻き込み、光の中心に立つ力。
花は、通過される。
種は、回帰される。
秦河勝だな、と思った。
彼女はなぜ自分を、ここに連れてきたのだろうか。
試されたのか、誇らしかったのか、あるいはただの流れだったのか。
ただ一つ、あのとき確かに思ったのは、
自分はこの光の中でも、焼かれない、ということだった。
灯台の光は強い。
海を照らすための光だ。
だが、自分がなりたいのは灯台ではない。
小伝馬町の薄い壁の部屋に戻る。
まるで籠のようなその部屋には、まだ彼女の匂いが残っていた。
春樹さんが灯台なら、
自分はきっと、灯籠だ。
誰も必要としていないかもしれない、そんな淡い灯り。
灯籠は、海を照らさないかわりに、訪れる者の足元を照らす。
照らされた足元。
もしそれが原点と呼べるものなら、それは回帰してもらえるということ。
灯籠のように、ただそこに在ることで、誰かの物語が始まるなら。
その違いを、あの午後、はじめて理解した気がする。

