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【今更】軒下のチネリ【自己紹介】

本記事は、アイアンマン台湾でコナスロットを獲ったことをネタにして2026年の創作大賞に応募しようと思って書いたものですが、結局自分の半生をなぞることになったので、今更ながら自己紹介記事として固定するものです。

プロローグ「頂点」

台湾、澎湖(ポンフー)島。港近くにそびえたつシェラトンホテルの地下2階。アイアンマン台湾の表彰式が行われていた。私はM60(男子60歳~64歳年齢カテゴリ)の表彰台の一番上にいた。

MCが呼びかける「Do you want to go to KONA?」「Yeeees!!」

アイアンマン世界選手権への出場資格(通称・コナスロット)を獲得した瞬間だった。

その壇上から見た光景は、生涯忘れられないものだった。しかし同時に私は、ある光景を思い出していた。

軒下に吊るされた、ボロボロのチネリ・・・

第一部「遠い世界」

1980年代。私は筋金入りの自転車少年だった。中学入学祝いに叔母に買ってもらったスポーツサイクル「ロードマン」を皮切りに、ひたすら自転車にのめり込んだ。

愛読書は月刊「サイクルスポーツ」。ありとあらゆる自転車絡みの知識を吸収していた。ある時、少し毛色の違う記事が目を引いた。

「アメリカをゆるがす新しいスポーツ トライ・アスロンとは何か!?」

水泳、自転車、そしてランニングを続けて行うという、常軌を逸したレース。

「こんなことをするやつがいるのか」

自分には全く縁のない、遠い世界の話のようだったが、どこか心に引っかかるものがあった。

1990年。就職した頃、いわゆる「草の根ネット」から発展したパソコン通信「Nifty-Serve」が隆盛を誇っていた。

当然のように自転車フォーラム「FCYCLE」に加入する。沢山の自転車好き達と交流していると「トライアスロンをやりたい、一緒にやろう」という仲間が現れた。

「できるかどうか」ではなく「面白そう」素直にそう思った。あの時の「遠い世界」が急に自分に近づいてきた瞬間だった。

しかし、当時は自分も、その仲間も水泳が苦手でろくに泳げなかった。そこでまずはスイムが無く「ラン⇒バイク⇒ラン」で構成される「バイアスロン(※)」に出よう、ということになった。

※「バイアスロン」は当時の呼称。しかし冬季五輪競技のそれと紛らわしいため、現在では「デュアスロン」と呼ばれている。

並行してトライアスロンデビューを目指し、皆で東京都体育館に行ってスイム練習に取り組む。ショートディスタンス(※)のフォーマットである、スイム1.5kmをどうにか泳ぎ切れるようになった。

※当時はまだトライアスロンがオリンピック競技になる話など始まっておらず、したがって「オリンピックディスタンス」という用語もなかった。

満を持して初めて参加したレースは、修善寺サイクルスポーツセンターで行われた「スイム1.5km(プール)⇒ラン10km⇒バイク40km」という変則的なフォーマットだった。

完走したときの達成感と感動は途方もないもので、私はあふれる涙をこらえきれなかった。

その後、初めて「海で泳ぐ」本格的な大会にも出場。石川県・能登半島の先端で実施される「珠洲トライアスロン」だった。

バイクだけは自転車通勤で鍛え上げていたため異様に速かったが、スイムとランはボロボロだった。特にバイクの後のランの鉛のように重い脚に悶絶したことをよく覚えている。

当時乗っていた車両は、サイクルスポーツ誌の広告でキラリと光っていたイタリアの名車、黒のチネリ・スーパーコルサ。超本格派の「ロードレーサー」だった。

ボーナスを注ぎ込み、部品を揃えて自分で組み立てたこともあり、愛着はひとしおだった。

第二部「失う」

翌年。仲間と一緒にフルマラソンに挑戦することになった。1992年の佐倉朝日健康マラソン。

仲間たちは「4時間切り」を目標に掲げている。当時、マラソンを走るための情報などほとんど出回っていなかった。私はデュアスロンのランで走っていた感覚の延長線でしか考えておらず「4時間切り、楽勝かな」などと舐め切っていた。

ハーフまでは極めて順調だった。「このままなら、4時間どころか、3時間半で行ける」・・・甘かった。ハーフ以降、脚が動かなくなり、30キロ以降は激痛。ほうほうの体でゴール。マラソンは甘くなかった。

その頃、自分の身体で気になるところがあった。走る時はそうでもなかったが、歩行時に右脚が後ろでつっかえる感覚。

「整形外科に見てもらったほうがいい」会社でアドバイスをもらい、紹介してもらった病院でレントゲンを撮る。大したことはないだろう、と高をくくっていた。

「すぐ、大きな病院へ行きなさい」医者は深刻な表情だった。

紹介された虎の門病院でMRIを撮ると、右大腿骨の骨頭部直下に鶏卵大の腫瘍が写っていた。即入院、摘出手術となった。幸い腫瘍は良性だった。

担当医は「君はもう走ったりトライアスロンしたりは、できないよ」と言った。

なぜか私は「そうは言ってもそのうちに治ったらまた走れるんじゃないの」などと軽く考えていた。

しかし術後の経過は思わしくなく、微妙な痛みが継続して私は本当に走れなくなった。

しばらく交流を続けていた仲間とも、次第に疎遠になっていく。

そして結婚を機に私はすっかり競技から足を洗うことになった。クルマとオートバイにのめり込み、運動とは全く縁のない日々を送りつづけた。

10余年の日々が過ぎ去った。

第三部「軒下のチネリ」

2005年の冬。出勤しようとした私は、玄関で泣き崩れて動けなくなった。「もう何もできない。自分はダメな人間だ」冷たい玄関の上り框に座り込んだまま、負の思考だけが脳内でスパイラルを描く。重度のうつ病だった。

前年までに「鬱傾向」という診断で心療内科に通って薬でごまかしながらなんとか過ごしていたのだが、当時の激務のプレッシャーはあまりに重く、ついに私は「撃沈」した。

医師からは休職を勧められた。妻はこのままでは私が死んでしまうと直感し、会社のある横浜から離れることを決意。休職して家族を引き連れて京都の山中の限界集落に引っ越し、転地療養することになった。

もう自転車で本気で走ることはすっかり無くなっていたが、思い入れの深いチネリは手放すことができなかった。

しかし、山の家は極端に狭かったため、やむを得ずチネリは表の軒下に取り付けたバイクラックに吊るされたままになっていた。

2年の休職期間を経て、どうにかある程度回復した私は職場に復帰するにあたり、家族を残して横浜に単身赴任することになった。子供達が地元の学校に進学を希望したためだ。

平日は横浜で仕事をし、月に何度かは週末に京都の山の家に戻る。そういう日々が続いた。職場復帰したとはいえ、私はまだ心療内科に通い続け、どうにか薬でごまかしている状態だった。

2009年の春。転機が訪れる。

いつものように週末、京都の家に帰っていた私は、ふと軒下に吊るされていたチネリを見た。

「こいつも長いことここに吊るしたままだったな」

いつしかそれはただの風景になっていて、まじまじと見直したことはなかった。

しかし、よく見ると4年に渡る風雨や気温の変化に晒され続けていたそのフレームの塗装は、バキバキに割れて、一部が剥がれ落ちていた。

真っ青になった。
「俺は、なんということをしてしまったのか」
「このチネリは、俺の宝物だったのに」

やおら私はチネリをラックから下ろし、各部の点検を始めた。塗装は割れていたものの、幸い下地に強固なメッキが施されていたおかげで、致命的な錆は発生していなかった。

「まだ、死んでない」
「また、これに乗って走りたい」

各部のメカも、まだ使える状態だった。タイヤはパンクしていなかった。空気を入れると、それまで「飾り物」になっていたチネリが、再び「自転車」に戻ったようだった。

バタバタと物置をひっくり返し、当時使っていたウェアやヘルメット、シューズを引っ張りだしてきた。これを捨てずに残していたのも、ある意味何かの啓示だったのかもしれない。

近所の峠に走りに行く。体力が地に落ちていた私はヘロヘロになって峠にたどり着いた。

その帰り道のこと。下り坂をサーッと走っていると、胸の中にずっととぐろを巻いていた嫌なものがスーッと消えていく感じがした。

5月のさわやかな風が耳元を過ぎていく。「気持ちええ・・・」

何年ぶりだっただろうか。いや、こんなに気持ちよくなったのは生まれて初めてだった。

往復40キロにも満たなかったが、ほとんど運動していなかった私は全身筋肉痛になった。しかし、この日のことは終生忘れられない思い出になった。

第四部「夢、再び」

その後、ボロボロだったチネリを完璧にレストアした。部品をすべて交換し、フレームは塗り直して新品同様になった。京都に帰っては山に走りに行く。そうしているうちにどんどん体調がよくなっていった。

1年ほど経って、ふと「ランニングもできるんじゃないか」と思った。よく考えると、しばらく前から股関節に痛みがなくなっていたのだ。

10数年ぶりにランシューズを買い求め、単身赴任先のアパートから出て近くの川沿いを走ってみる。月に照らされた夜の河川敷の遊歩道がやけに眩しく見えた。

「俺は、走れている」

いつの間にか、涙がこぼれていた。

それから少しずつランニングにも復帰していき、みるみる体調がよくなっていった。ある日、自分が薬を飲み忘れていることに気づいた。

「あれ?薬飲まなくても平気だ」

5年越しで鬱が治ったことを確信した日だった。

「あとスイムをやればトライアスロンもできる」再びプールにも通いだした。

2011年、新しく開催される横浜トライアスロンにエントリーしたのだが、震災により秋に延期となってしまった。ちょうどその頃は業務で長期海外出張に行かなければならない。

しかし、もう復帰したいという思いは止められなかった。

「国内でダメなら出張先で出ればいい」スーツケースにウェットスーツを詰め込んだ。

18年ぶりの復帰戦。スイムは冷たい湖だった。過呼吸になりかけた。それでも全力で泳いで、漕いで、完走した。「I am a triathlete!!」フィニッシュで拳を突き上げた。

その後もフルマラソン、ミドルのトライアスロン、ロングのトライアスロンと次々にステップアップしたが、その道のりも決して平たんではなかった。

2014年の珠洲大会では、レース前日に捻挫し出走を断念。

2015年のさいたまマラソンでは、一か月前の追い込みで肉離れを発症し、欠場。

2017年の五島大会では、年代別で15位までランクアップしたが、ロングディスタンス世界選手権出場資格が得られる12位には届かず、苦汁を飲んだ。

2018年の五島大会ではついに年代別一桁に食い込み、翌2019年にスペイン・ポンテベドラで開催される世界選手権への切符を手にした。

ついにここまでたどり着いた。そんな感慨があった。

ただ、この世界選手権は、年齢別カテゴリーごとに一定以上の成績を収めれば出場資格を得られる大会だった。

一方、トライアスリートの世界には、もう一つ、特別な「世界選手権」がある。それは「アイアンマン世界選手権」通称「コナ」である。

第五部「また、失う」

「アイアンマン」とは、スイム3.8km、バイク180km、そして42.195kmのフルマラソンを一日で行う究極の耐久レースだ。それが開催されるハワイ島・コナは、世界中のトライアスリートにとって憧れの舞台である。

それに出場するためには、各国で開催されているアイアンマンの大会に出場し、年代別で優勝もしくはそれに準ずる成績を収めなければならない。

だからトライアスリート同士なら「コナに出た」の一言で、どんな人なのかわかってしまう。

しかし当時の私にとってそれは「超えられる気がしない、高い壁」だった。

しかし、問題はそれ以前のことだった。2020年から始まったコロナ禍。世界中のあらゆるレースが中止に追い込まれ「トライアスロンどころではない」世情。多くの選手たちが競技から離れるきっかけになった。

私もいよいよアイアンマン大会に参加すべく、友人たちと一緒に台湾の大会にエントリーしていたが、あっさり中止になってしまった。積み上げたものがガラガラと崩れていくような気分だった。

それでも私は練習を辞めなかった。自宅庭に建設した練習小屋に篭り、ひたすらZwiftというバーチャル環境で走る「インドアライド」とトレッドミルでのランニングに打ち込んだのだ。リモートワーク環境が普及したことも追い風になった。

ようやくコロナが沈静化してから初めて参加したマレーシアのアイアンマンレースでは、年代別で上位の成績を出せたのだが、それでも「コナ」獲得には遠く及ばなかった。

その後様々なレースで少しずつ実力をつけていった私は、2024年のシーズンに期するものがあった。日本で7年ぶりにアイアンマンが開催されることになったのだ。

アイアンマンみなみ北海道。迷わずエントリーし、それまでずっと中古フレームに寄せ集めの部品で凌いでいたトライアスロン用の自転車も、ついに新調した。

「これで戦える」私は本気でコナを狙っていた。

ある日、練習中に異常な頻脈が起きた。普段から心拍数には気を付けているが、どうしたものか、と思っているうちに収まった。

仲間の助言もあって、念のため循環器内科で診てもらうことにした。数週間かけて一通りの検査をし、改めて検査結果を聴きに行く。診てくれた先生は、非常に深刻な表情をしていた。

「あなた、トライアスロンをやるんだって?」「はい」
「それって、やらないといけないものですか?」「えっ・・・?」

先生は口にこそ出さなかったものの、その表情には「辞めないと死にますよ」と書いてあった。

その他細かい診断結果を聞いたが、そのどれもが「もしかして大丈夫なんじゃないか」という一縷の望みを打ち砕くものだった。診断書には「激しい運動は禁止」とあった。

病院から出てきて、しばらく呆然と立ちすくんでいた。さまざまな思いが去来した。

30余年前、最初に引退したときのこと。チネリを直して復帰できたこと。それから数えきれないほどレースに出たこと。沢山の仲間に出会い、辛い時、嬉しい時を共有してきたこと。

また、ポッカリと胸に穴が開いたような気がした。これからの人生、どうやって過ごせばいいのか。

しかし、それから自宅へ帰る道すがら、次第に気持ちを切り替えることができた。トライアスロンに18年越しで復帰し、延べ15年間も頑張った結果、世界選手権にも出たし、アイアンマンにまでなった。それだけでも一生誇れることだ。

一つ、心の奥底に引っかかっていたのは「ついに、コナには行けなかった」これだけだった。

その年にエントリーしていたすべての大会をキャンセルした。

だからといってトライアスロンの世界と袂を分つ気にはなれなかった。

ちょうどその頃実施されるトライアスロン審判講習会があったので申し込み、晴れて私は新人の三種審判員となった。

「出場するはずだった」アイアンマンみなみ北海道。たまたま、知り合いの口利きで「審判として」参加できることになった。

得難い経験だった。選手としての主観ではなく、審判として客観的な立場からレースを見る視点。そして審判は選手を裁くのが仕事ではなく、選手がスムーズにレースを進められるよう、陰で支える存在だったことを学んだ。

歓喜に沸くゴールエリアをよそに、最後の走者がタイムオーバーを宣告される悲劇的な瞬間にも立ち会うことになった。

「これもトライアスロンだ」あの光景は今も忘れられない。

第六部「復活と消沈の荒波」

話は一旦北海道の前に遡る。私は掛かっていた循環器内科の方針にいくばくかの違和感を抱いていた。

先生は私を「投薬をやめたらたちまち死んでしまう危険な病気を抱えた患者」のように扱っている。しかし私は、最終診断が下る直前に東京マラソンを3時間16分で完走するほどの状態だった。

「本当に自分の心臓はそんなに悪いのか?」腑に落ちなかった。

ある日、Zwift仲間の一人からメッセージが来た。彼が医者であることは風の噂に聞いていた。

「セカンドオピニオンは受けましたか?もしまだだったら、紹介しますよ」

この一言が、再び、私の運命を大きく動かした。

「ダメ元で行ってみるか」

紹介してもらった東京女子医大の先生は、ご自身も自転車乗りであり、しかもアマチュア自転車レース界では知らぬものはない超有名選手の心臓も診察していた。

数週間を掛けて、エルゴバイクやトレッドミルを使った本格的な負荷心電図検査を始め、様々な検査を受けた。先生の診断結果は、あまりにもあっさりしていた。

「大丈夫ですよ」「本当ですか!」

病院からの帰り道、真夏のギラギラした太陽が輝いていた。また「あの場所」に戻れる・・・しかし嬉しさよりも先に、みんなに何と言って戻ればいいのか、そんなことを考えていた。

翌2025年4月20日。私は宮古島・前浜海岸に立っていた。宮古島トライアスロン。選考倍率が高く、エントリーをしてもなかなか出られない国内屈指の人気大会だ。しかしこの年は奇跡的に出場が叶った。復帰戦に相応しい舞台だった。

1年以上実戦から離れていたこともあり、思うような結果は出せなかったが、全力を出し切ってフィニッシュゲートに走り込んだ。

「また、ここに戻ってきた」素直に嬉しかった。

その年は、さらに五島トライアスロンにも復帰し、完走。さらに昨年「審判側」を体験したアイアンマンみなみ北海道にもエントリーしていた。

その矢先、老齢の父が死去した。

残された母を一人にはできないため、実家に泊まり込みで世話をしながら父の死亡後の手続き一切を行った。その後、母の施設への入居・引越しの手配に忙殺されているうちに9月のアイアンマンウィークは過ぎて行った。

私はもう既に吹っ切れていた。誰にでも起こりうる、人生の荒波だ。今までにも似たようなことが何度も起きた。それが今回このタイミングで回ってきただけだ。

それでも私は「来年また、必ず復活する」と信じ、練習だけは怠らなかった。

第七部「頂点へ」

翌2026年、私は還暦を迎えた。単に人生の節目というだけではなく、これはトライアスリートにとって5年おきに訪れる重要な節目の一つだ。

エイジカテゴリーは5歳刻みになっている。つまり60歳は60~64歳カテゴリーで「最も若い=最も有利」な年代なのだ。

このチャンスを逃す手はない。

私は2026年の目標を「アイアンマン世界選手権出場権獲得」とし、その対象レースとしてアイアンマン台湾を選んだ。6年前にコロナ禍で出場を逃した、因縁の大会だ。

これに賭けるため、それまでにも増して必死で練習をした。少なくともバイクとランについては、もうこれ以上は無理、というぐらい追い込んだ。

仲間にも「コナを獲りに行く」宣言をした。今までの自分なら、怖くてできなかったことだ。

しかし、一つだけ不安があった。苦手なスイム。まだ、練習から逃げ続けていた。

「このままでいいのか」「いや、ダメだ」これは自分でコントロールできること。それまでずっと避けていた「朝スイム」に通う決心をした。

生まれて初めて、水泳のコーチに指導を受ける。目から鱗だった。

「末石さん。手の入水の位置が違います」「ええっ?」

自分では真っすぐ伸ばしているつもりだったが、中央に寄っていると言う。水泳は技術が大きなウェイトを占める。人に見てもらわないと分からないことが沢山あった。

それから数週間、揉まれに揉まれた。毎回、クタクタに疲れたが、久しぶりに新鮮な充実感があったし、新しい仲間にも恵まれた。

台湾出発までには、ほんの5回ほどのレッスンだったが、効果は計り知れなかった。唯一気がかりだった自分の弱点の「穴」に、朝スイムによる最後のピースがカチッとハマったような気がした。

台湾へ旅立つ朝。妻は「コナは来年でいいから、楽しんでらっしゃい。それより、生きて帰ってくること!」と送り出してくれた。私も「確かにその方が大事だな」と思い、かえって気負いがなくなった。

レース当日。スタート地点の小学校は世界中から集まったトライアスリート達でごった返していた。ドローンが飛び交い、派手なロックが鳴り響き、MCが囃し立てる。

喧騒の中、運命のスタートが切られた。

スイムは、ひたすらに朝スイムで習ったことを反芻しながら手を回す。岸に上がったとき、明らかにいつもより良いタイムだった。それまでにはありえなかった年代別3位。ただ、もちろんその時は知る由もない。

バイクは、向かい風に苦しみながらも、無難にまとめることができた。この時、実は年代別1位に躍り出ていた。しかし、同様にレース中には自分の位置などわからない。「このまま行けるのか、もっとプッシュしないといけないのか?」

しかしそれが吹っ切れるときがきた。4周回あるランの2周回目。メイン会場の前を通り過ぎるとき、先に熱中症でリタイヤしていた仲間のY田さんが私を見つけ叫んだ。

「タイさん!年代トップ!ブッチギリだよ!このまま行けば勝てるよ!」

それまで悶々としていた私は、この時明確に勝ちを意識して、勇気が湧いてきた。実は2位の選手に追い上げられていたのだが、結果的に逃げ切ることができたのは、この声に後押しされたからだと思う。

気が付いたら、ゴールテープを切って絶叫していた。

「勝ったあああああ」

この生涯で、これまで一度も味わったことのない感覚だった。

エピローグ

表彰式は、夢のような時間と空間だった。しかし同時に脳裏をかすめたのは同世代の強力なライバル達の存在だった。

彼らはたまたまこのレースには来ていなかった。もし、彼らが出場していたら・・・自分はこの場所にはいられなかっただろう。

熱狂の傍らで、妙な空虚感が頭の片隅にあった。

その彼らとて、もしかすると私と同じ感覚を持っているのかもしれない。世界を見渡すと、強い奴はどこまでも強く、見上げるときりがない。ただ、今回は自分が結果を出せた、そういう巡り合わせだったのだろう。

様々な苦難に翻弄される人生。そのどれもが、自分ではどうしようもないことばかりだった。

長らくトライアスロンに取り組み、何度も挫折を繰り返しているうちに、ひとつ気づいたことがあった。

「自分でコントロールできないことにこだわっても、どうにもならない」

トライアスロンは、自分の身体一つでゴールを目指す競技だ。しかし、周囲の自然はおろか、自分の身体さえも、自分でコントロールしきれないことばかり。

しかし、それが当たり前なのだ。だからこそ、努力して、障害を跳ねのけて、少しでも上手く行くと、それが歓びに変わる。

それが分かってくるにつれ、私は次第に気持ちが楽になり、自然体でレースに臨めるようになった。それだけでなく、日常生活でも不可抗力に心を乱されることが少なくなっていった。

そして、今の自分がどうやってここまでたどり着いたのかを紐解いていくと、やはりあの日ボロボロになっていた「軒下のチネリ」に行きつく。

あの日。チネリを見上げていなかったら。

もう一度「乗ってみよう」と思わなかったら。

あるいは、チネリを屋内で綺麗に保管していたら。

今の自分はたぶん、いない。

人生は、何度どん底に落ちても、何度ボロボロになっても、本当に好きなことを愚直に続けていれば、いつか輝けるときが来るのだ。

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