疲れたときこそ何にも考えずただ書いてたい
いつも何かを書くとき、エッセイでも簡単な文章でも、大層なことに私はプロットや構成のようなものを拵えてから文章を書き始める。
そういった道筋を自分に与えてやらないと動き始めることすらできず、巣穴に帰ってゆく動物のようにして布団に戻ってもぞもぞとしてしまう。
そうして、やれ菓子を食べたり、やれ動画を見たり、やれ漫画を読んだり、やれぬいぐるみを愛でたり。ことあるごとに集中を欠いては、木に止まる雀を部屋の中からぼんやりと眺めてしまったり。
もし私が海賊になったら、まず生きて帰ってはこられない。同業者にやられてしまうか、遭難するかして、幾ばくかの食料もなくなり、我が身を食べ始めかねない飢餓に苦しむことだろう。
一日の予定にしてもそうで、いつの頃からか、やることリストを書かなくては行動できなくなってしまった。
誰かとの会話の中でやることリストのことを伝えると「えらい」だとか「すごい」という反応が返ってくるのだが、いかんせんこれはサボりがちな自分に宛てた処方箋と言うべきもので、これがないと何もできないのだ。
自分の行動を外注化しているような気分で、未来の自分にやってほしいこと、やらないといけないことを書き出していく。特に疲れている時はこれがないと、もうほんとに虚空を見つめるしかなくなってしまう。
そして、今回はほんとうにそうなってしまい、疲労が限界まで蓄積されていた。否応なしに攻めてくる睡魔から逃れるようにして、さっきまで黄ばんだ壁紙をなんとかギリギリ見つめていたのだけど、エッセイやコラム、何かしらの文章をもっと書きたいという心の底に芽生えたつくしのようなものが薄っすらと脳内に姿を見せた気がして、重い腰をあげてきたわけだ。
しかしながら、構成を考えるのも面倒で、道筋を作るのも面倒だった。いや、面倒というよりはできない。頭の中に何もないんだからしょうがない。もしかするとこの文章にも何が宿っているのか分かったもんじゃない。
つまり、本当の本当に何も考えずに、いまこのエッセイらしき何かを書いている。リアルタイムで。あんまりこういうことはないのではないだろうか。しかし、このままではただのぼやきになってしまう。
なるべく、ボリュームのある内容にもしたいので、何か考えねば。予定調和を愛する完璧主義な私を悩ませるイレギュラーな存在……。
そうだ、みなさんは屁をこいた事がありますか?
ありませんよね。私はあります。
こきたくてこいている訳ではないので、漏れていると言った方が正しいのかもしれない。とにかく必要もない――訳ではないのだろうけど、私の尻は多様な音を勝手に奏でやがる。
唐突に漏れる音を聞いて、私は表情でもって多くの恥を表現してきた。
表に出たがりの屁は、いついかなる時であっても、あの二つに割れた汚らしい路地裏のようにむさ苦しい狭いところを無理に通り抜けてでも、出てこよう、出てこようと企んでいる。あげくには「ピチッ」だとか、「ぷりんっ」だとか、「ブチッ」とおよそ屁とは思えない音を聞かせてくれる。
小学生であったころ、私は書道教室に通っていた。屁にとっては恰好のこき処である。彼ら彼女らには、慎むという言葉は理解できないし、正座をしている私にも制御のしようもなかった。(濁音を伴って鳴る音は男性的で、破裂音パ行を鳴らすのは女性的である気がしている。)
同じ教室にいるのも、好奇心旺盛な子供たちなわけで、妙な破裂音が鳴ったり、「ぶばっ」だとか、「ブッ」だとか、こういう時に限って屁らしい屁が聞こえてくるものであるから、「きたねぇ音だな!」とか「小さい花火みたい」だとか騒ぎたてる。黙っていればいいものを。私はベジータではない。
私としては、バレずに事なきを得たいのだけど、隣に座っていた兄から、「屁をこくな」と言われ、それまでだった。観念した私は何やら言い訳を思案しつつ、顔の温度が上がってゆくのを感じた。しかしながら、周囲は不思議なことに落ち着きを取り戻し、再び沈黙が訪れている。そこへまた、ぶすっと控えめに音が鳴った。
屁とは、どうやら静かな空間が好きなようで、空気が張り詰めて、今にも破れそうになっているのを察知したなら、ただちに自らの音でもって、その静寂を破ろうとするのだ。
中学生のある時、体育館で行われた学年集会で静まる空間のなか、「ぶぷすぅー」と気の抜けたような屁の音が鳴り響き、周囲の方々へ匂いと共に挨拶をして回っている。私ではなかった。周囲にいる、誰かのむさくるしい所から漏れ出た音だった。
場には、少しのざわめきが生まれ、犯人捜しのようなニヤケ面が、一様に見えたころ、私は思わず言ってしまった。「屁が出てもうた」と。周囲はニヤケを崩さぬまま笑いをこらえ、いかにも納得したような顔で元の静寂へと戻っていった。屁で悲しむのは、恥を知るのは自分だけで良いと考えてしまったのかもしれない。
これではまるで屁負比丘尼だ。現代であればレンタル屁こきだとか新たな需要もあるかもしれない。
屁ビジネスにありつける気がする。仕事であれば、変に恥ずかしがる必要もないだろう。「あ、今のビジネスッ屁です」とでも言っておけばいい。あぁ、なんだ仕事か、と納得してくれるはず。本来、屁とは恥ずかしいものでも、何でもないはずなのだけど。
私と屁の付き合いはもう10年にも20年にも及ぶ。屁の生産者としては、賞状の一つや二つでは済まされない功績を持っているものと自負している。
言い訳めいたものになってしまうかもしれないが、私は単に、換気をしているのだと考えたい。屁のほとんどは、口から取り込んだ外気であることが多いようで、そう呼んでも差し支えないだろう。さながら、お尻は換気扇のようなものと言える。それならば、音が伴うのも仕方ないというもの。
流石に換気扇ほど、私のお尻はうるさくない。雑踏や喧噪に紛れさせることができるくらいには大人しい方だと考えている。屁の方には予定も何もないようで、歩行と同時に「ぷりぷり」怒っているのかと思わせるような口ぶりで何かを訴えている。
節度を持って行動してもらいたいものだが、自由なこやつは時に、まるで殿様であるかのような振る舞いを見せる。
そのくせ一丁前に恥を知っているのか、我慢を強いられ耐えている私のことはなんのそので、大人しい響きで「ぷぅぅーーー」と控えめに気の抜けた音を鳴らせることもある。主に鳴り響く現場は、書店であったり、文具店であったり、どこもそれなりに静寂の保たれた場であり、大変よく響き、私も辛い。
周囲の人達は、学生の頃とは異なり、一切騒ぎ立てることなく、何食わぬ顔で豊富な品々を見定めている。しかし、脳内を本当に巡っているのは手に取った商品のことだろうか?大人の対応なのだろうか?いいや、違う。今この場で起こった屁について考えているに違いない。
誰がこいたのだろう、随分と控えめだったな、ちょっとかわいそう、といった感想もあれば、それが匂い付きであった場合には、臭い、昨日何食べたんだ、臭い、といったことも考えていることだろう。
半ば強制的に屁について考えさせることのできるこやつは、一体全体人類にいつまで悩みを抱えさせると言うのか。
屁の方についても、プロットや構成を作成したとして、その通りに鳴ってくれれば、私としても大いに助かるのだけど、そうもいかないものだ。しかし、屁の予定など決めたくもないな。
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