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化け猫のたたりん #古賀コン10

 犬理と書いてダイスケと読む。初対面の相手に、説明するのにはなかなか骨が折れる名前である。犬理自身もどうしてこのような名になったのか、よく知らない。出生届を出しに行ったのは祖父だったというが、母はそのことについて詳しく語ろうとしない。というのも役所に書類を出したその帰り道に、祖父はかえらぬ人となってしまったから。
 自分が生まれたからには、父がいたのだと思うが何一つ聞かされたことはない。
 あれは小学校三年だったか四年だったか、授業中に担任は雑談で「先生のお母さんは糖尿病だから、イヌリンの入った飲み物やお菓子を食べるんだ」という話をした。イヌリンは糖類であるからほんのりと甘い、しかしヒトには消化できないから血糖値は上がらなくて、食物繊維みたいに腸内細菌を助けてくれる、云々。
 話しながらちらり、担任の視線が向かった先をクラスメイトは見逃さなかった。
 はたしてマシンガンのようにイヌリン弾丸が降り注ぐ、これは担任による無邪気を装った意識的な遊びであろうと犬理は悟った。ただやり過ごしていくことは、自分にもできそうであった。その程度には大人びていた。


 さて、犬理はめでたく定年退職した身分である。気ままに国内を巡る。
 八ヶ岳の稜線の柔らかいところに眼をやりながら平地をするすると歩く。山脈の輪郭が急に尖って固く変わる。さすればちょっと小幅で慎重に歩くような真似をしてみる。こういう遊びを気兼ねなくできるのは、一人で旅しているおかげである。
 自分の中であれこれと内省して完結することが多い。生まれ持っての性向に、一人暮らしが長かったことで磨きがかかったのであろう。友人がいないわけではない。ただ、思考のほうも体に馴染む時間の使い方も、一人だとしっくりする。それだけのことだ。
 やがて道の両側は白樺林となった。白い幹の間から覗く十一月の空は、高いところほど青さに迷いがない。
 犬理は立ち止まって、青い日差しを一杯に浴びた。
「おにいさん。ご機嫌じゃないの」
 犬理の視界には誰もいない。はて、とあたりを見回すと葉の落ちた白樺の枝がゆさゆさ、と音とたてた。左前方の梢の近くに女が腰掛けているのである。
「ねえさんこそ」
 そう返しながらも、どうやってあそこまで登ったものかと犬理はいぶかしんだ。女は空の色に溶け込みそうな蒼い着物を着て、長い髪は結えることもされず風になびいている。
「あたいはいつだって機嫌がいいのさ。それが大人のたしなみ、ってやつだろ、ねえおにいさん」
「そりゃあ、まあ、そうだ」
 風が枝をかすめるような声の調子からして、自分とそう歳が変わらないのではないか、と犬理には思われた。女の顔かたちや肌つやなど、もう少し見てみたいものだ、と目を凝らす。すると、黒いものがつるつると眼前を通り過ぎた。
「どうしたね、おにいさん」
「いや、黒いやつがちらつくもんで、ねえさんの顔が見えにくくって」
飛蚊症ひぶんしょうかい?」
「良くご存知だね、ねえさん。目ん玉の中に虫でもいるような気分だ」
「歳とるってのは、まあ、そういうことだね。あんたの父ちゃんも、通ってきた道だろうよ」
「あいにく、俺は父親の顔を知らないんだ」
「へえ。あたいもそうだよ」
 見ず知らずの女と一体全体どうしてこんな話をしているのだろう、と犬理は思う。
 いや、通りすがりだからこそ、できるのかもしれない。
「ねえさん、お名前は」
 続けて俺はダイスケ、と言おうとして天啓のようなひらめきに目がくらんで、犬理は思わず目を閉じた。大理、と書いたところに虫が飛んで、その軌跡のままにボールペンの動くのが見えたような気がした。
 祖父も飛蚊症だったのであろうか。
 人生など、そんなものだ。
 残りの時間を、この名前を少なからず愛すべきものに変えて過ごしていくことは、できそうであった。その程度には成熟していた。
「あたいは、たたりん」
 犬理が目を開けてみれば、果たしてそこには誰もいないのであった。

 ただ、深い深い蒼色の猫が白樺の間を駆けていく、のみ。

<了>


 初参加させていただきます! 古賀さま、読者の皆さま、どうぞよろしくお願いします。


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