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『一般意志2.0――ルソー、フロイト、グーグル』のまとめと感想 東浩紀論のためのメモ(15)

このテキストは「東浩紀論」の(非常に乱暴な)覚書です。その完成とともに削除される予定です。最初からご覧になりたい方はこちらのマガジンをご利用下さい。

第一章
本書は、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』と「情報技術革命」の交差する地点にある。グーグルの創業理念は「一般意志」の構想と響き合う。ルソーの「一般意志」は議論を進めるための仮定でしかなかったが、今やそれを技術的に実装できる可能性がある。
ルソーは、一方で極端な個人主義者、他方で極端な全体主義者であるように見える。ルソーは、自然状態にいる「野生の人」の自由と幸福を謳いあげるとともに、個人(特殊意志)の全体(一般意志)への絶対の服従を強調する。国家が死を命じるとき、市民はそれに無条件に従うべきだという。
情報技術の革新は、意見集約のメカニズムを急速に洗練させた。そこには「集合知」がある。

第二章
『社会契約論』は第一篇で社会契約、第二篇で一般意志、第三篇で政府の形態を論じる。社会契約があり、一般意志が生まれ、最後に統治機構が設立されるという順序で書かれている。
政府とは、臣民と主権者の相互連絡のための中間団体である。主権と政府の区別が重要なのは、その区別が革命権を保証するからである。
ホッブズでは、人々が全ての権利を特定の個人、または合議体に委ねることで国家が成立する。後から社会契約が両者の間で結ばれる。これでは人民は政府の形態を原理的に変更できない。支配者に合意した上でその庇護下に入るのだから。
「全体意志」も「一般意志」も個人の意志(特殊意志)の集合であることは変わらない。しかし全体意志はしばしば誤る。いわゆる「世論」は全体意志である。
全体意志は、特殊意志の「総和=合計」である。一般意志は、個別意志の和(全体意志)から相殺しあうものを除いた上で残る「差異の和」である。
重要なのは、ルソーは一般意志を数理的に算出可能だと考えていたという事実だ。

第三章
ルソーは、直接民主主義を理想とし、政党や結社は作るべきではないとした。一般意志の正確さは差異の数が多ければ多いほど増すと考えたからである。部分的結社が作られると、差の数が減少し、結果として一般性の程度も減少する。市民の間の意見調整は、一般意志を不正確にするのである。
一般意志は「合意」ではない。一般意志は人間の秩序ではなくモノの秩序に属する。それはあたかも自然物であるかのように立ち現れる。

第四章
ルソーの社会契約は、個人の不安定なコミュニケーションの外側に「一般意志」という新しい基盤を生み出す。
アーレントとハーバーマスは、公共空間をコミュニケーションで作られると想定している。この観点では、数理的な一般意志は政治や公共の名に値しない。本書は、一般意志の技術的可視化を進めることが、民主主義の起源に立ち戻ることでもあると主張する。
政治思想には「熟議民主主義」と呼ばれる考え方がある。また、カール・シュミットは政治の本質は「友」と「敵」を分割し、敵を殲滅することにあるとした。
一般意志は熟議を必要とせず、友と敵を分割しない。それは今まで政治と呼ばれてきたものから遠く離れた政治の可能性なのである。

第五章
グーグルのユーザーは別に相互に意見を交換しているわけではない。ただ検索窓に単語を入力するだけである。にもかかわらず、検索語の選択、ページの閲覧履歴、広告のクリック頻度は蓄積し解析され、巨大な知を形成し、そこに集団的な意志が現れる。グーグルは私たちの無意識の体系化を可視化しているのである。あるいは、ツイッターの数十億というツイートやチェックイン(位置情報投稿)は、個々人の思いを越えた無意識の欲望のパターンの抽出を可能にする。そのデータの蓄積を現代社会の「一般意志」として捉えてみたい。この一般意志2.0は情報環境に刻まれており、従って知覚可能だ。
一般意志1.0は実在しない。しかし一般意志2.0は実在する。それは理念でも物語でもなくデーターベースとしてどこかのサーバに格納されている。必要なのはアクセス権と解析アルゴリズムの設定だけである。
(のちの『訂正可能性の哲学』「第2部 一般意思再考」では「一般意志は訂正可能性により遡行的に見出される」となっている。「脱構築」されたということだろうか)

第六章
政府2.0は、市民の明示的な意思表示(全体意志)ではなく、情報環境のデータベース、人々の集合的無意識=一般意志にこそ忠実でなければならない。
政治学や社会学において、政治とはコミュニケーションのことだと考えられている。しかし、ネットのコミュニケーションは、人々を普遍的で公共的な理性の場には導かない。コミュニケーションの再生で必要なのは、世界の複雑さを縮減し、政治的なコミュニケーションを可能にする制度設計ということになる。そのためにこそ、コミュニケーションなき政治の領域が整備されるべきだ。
(「世界の複雑さの縮減」を唱えたのはニクラス・ルーマン)

第七章
政府2.0はネットにばら撒かれた無意識の欲望を掬い上げ政策に行かすべきである。
一般意志2.0は、そのような意識しなかったことの集積として立ち現れる。ネットは無意識を記録し、かつ可視化するのである。

第八章
公(全体意志)と私(特殊意志)の対立とは別に存在している無意識の共(一般意志)を基盤に据える新しい国家の可能性がここにある。
ヘーゲルにとって国家とはその総体を統合する市民社会の自己意識として立ち現れる。意識が人格の同一性を保証するように、国家は社会の同一性を保証する。ヘーゲルは全体意志と一般意志の差異を、社会と国家の差異として理解した。
一般意志が、情報環境に刻まれた無意識の行動履歴のデータベースだとすると市民社会に同一性を与える「再帰性」の働き(社会の意識)は、国家(熟議)への動きとデータベースの算出過程という二つの手段(二つの公共圏)を持つ。全てが無意識のデータベースで決定されるわけではない。政府2.0は両者の相克の場だ。

第九章
一般意志は政府にとって、予算、憲法、環境、技術などと同様の、制約条件としての「モノ」である。政府は大衆の欲望を制約条件として受け取るのだ。

第一〇章
公共性に情念を結び付けるという議論は、ルソーやシュミットの時代と異なり、必ずしも独裁とは結び付かない。集合的無意識はネットワークの上で可視化されるからである。全ての省庁の審議会や委員会を例外なく中継する。聴衆の反応は映像化されダイナミックにフィードバックされる。本書が提案したいのは、実践的で常識的な小さな提案に過ぎない。

第十一章
筆者が提案するのは、無意識民主主義とでも呼ぶべきものである。
国会議事堂に大きなスクリーンが用意され、国民の反応がリアルタイムで集約され表示される。議員はスクリーンを無視して議論を進めることはできない。これはポピュリズムだと批判されそうだが、選良の論理だけで事態をやり過ごそうとしても、結局は抑圧されたリビドーが溢れ出すだけだ。
これは政府内の全ての会議をニコニコ生放送で公開しろと言っているようなものである。ニコ生では、視聴者の声は一種の抑制力として機能するからである。

第十二章
ポピュリズム政治家は、ワイドショーのコメンテーターのようなものである。視聴者の欲望を代弁して支持率=視聴率を稼ぐ。視聴者は力を持っているかのように見えるが、実際には無力で受動的である。
選良主義の政治家は教育番組に出演する学者のようなものだ。彼らは共演者=政治家仲間だけにしか話しかけず、視聴者を気にしない。
ニコニコ生放送の討論番組では、視聴者の反応が絶えず可視化されフィードバックされる。聴衆は能動的な存在である。

第十三章
リチャード・ローティは現代社会では「アイロニー」が倫理の基盤となるべきだと提案している。アイロニーは、二つの矛盾する主張を同時に信じることである。アイロニストは、普遍性を信じながら、その普遍性が特殊であることも認めるという自己矛盾を抱えている。
「主義」の衝突には決して結論は出ない。真理は相対的だからだ。だから公的な場からは理念的な原理は排除される。普遍的なものについての思考は私的な行為としてのみ許される。社会の公的領域は価値中立的で脱理念的なものであるべきだ。彼はそのような社会を「リベラル・ユートピア」と呼ぶ。
ローティは人間集団を結び付ける「連帯」の原理は、理性ではなく「想像力」であるべきだと主張する。感情こそが理性の限界を乗り越え連帯を生み出す。これは一般意志2.0の構想と深く繫がっている。

第十四章
現代社会は、もはやいかなる理念もなく、無数の島宇宙に分断されてしまった。しかし、ネットワーク論の視点で見れば、全世界はまだまだ小さい。個人間の偶然の連帯こそが民主主義の希望となるのではないか。

第十五章
一般意志2.0の思想は、「政治」「国家」「公共性」のラディカルな再構成に進んで行くものである。
未来において、ほとんどの人が国家に属する状況は変わっていないだろう。しかし多くの国家は、資本や文化の管理から手を引き、暴力を管理し治安を維持する装置としてのみ存続しているはずだ。そして人々は、同じ本を読み、同じ音楽を聞き、同じブランドの服に身を包み、同じネットサービスを使う。(この件は『テーマパーク化する地球』に継承される)
動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する。それが本書が構想する未来世界の公理である。
未来の政治にはもう一つ重要な側面がある。
若い無職の人間がいるとしよう。彼は「動物」として飼われている。そのようなひきこもりにも、自室に閉じこもったままで世界中の数十億の人間とのコミュニケーションが開けている。
ぼくは「ゆるい」政治参加、ネットワークの偶然の出会いを種として育つ、決定権も持たず責任も取れない問題に対して行うゆるやかなコミットメントが重要な役割を果すようになると考えている。

文庫版特別掲載 対談 日本的リベラリズムの夢 宇野重規+東浩紀

(東はここで「『一般意志2.0』は実は超越性を擬似的に再構築しようという本」であると語っている)
スクリーンに映っているのが政治家だとすると、視聴者は政治家に想像的に同一化する。象徴的同一化とは、大文字の他者という超越的な存在から政治家に同一化する自分自身がどう見えているか、その視線に対する同一化である。
(単なる想像的同一化と、想像的に同一化している自分自身がどう見えているかという俯瞰視点、つまりここにもコンスタティヴ ‐ パフォーマティヴ、オブジェクト・レベルとメタ・レベルが現れる)
ポストモダンでは大文字の他者が存在しなくなり、象徴的同一化もなくなる。人間を相対化してくれる存在がないので、政治家に対する想像的同一化だけになってしまう。だからポピュリズムになる。
ある種の二重構造を作らねばならない。そのときにニコ生のコメントはすごく分かりやすい例だと思った。
(東は、ニコ生での討論を単なる代替可能な一例であるかのように語っているが、「訂正可能性」におけるクワス算が訂正可能性そのものであるように、ニコ生のコメントこそが「一般意志2.0」そのものであると言っていいのではないかと思う。確かに他に適切な例が思いつかない)
大事なのは、コメントが、物理的なモノ、一つの障害物として、モニタにあらわれるということであって、それが一般意志を表現しているとは言えない。一般意志そのものは存在しない。
(宇野氏は「たぶん、東さんは話しているときも、同時にコメントが読めるんですよね」と返しているが、鋭いと思う)
(また、東は既にここで、のちに問題なる発言「選挙には棄権もあり得る。むしろ『とにかく投票が大事だ』というのは全部偽善に過ぎない」という意味のことを語っているが、宇野氏は「私は『選挙に行こう』と言います。偽善だなとは思ってますよ。そう言って行かなければ、ますます無力感が募る」と大人の対応をしている)

リチャード・ローティのリベラル・アイロニストの話は毎回出て来るのだが、どうも私には納得出来ない。「普遍性を信じながら、その普遍性を私的領域に閉じ込める」などということが可能だろうか。その矛盾を受け入れるのがアイロニーだという理屈は分からないでもないのだが。
しかし、いったい「普遍」とはそういうものだろうか。
これは、一つにはリベラル・アイロニストが「道徳上の熟考をする際の自分の言語が、したがって自分の良心が、さらには自分の共同体が、偶然性を帯びているという感覚をもつ人びと」であるためだろう。(「メタリアル・フィクションの誕生」『文学環境論集 東浩紀コレクションL』)
ここにもソルジェニーツィン的な偶然・確率の世界(可能世界)がある。
どうしても私は可能世界をリアルなものとは捉えられない。
しかし、それにしても『一般意志2.0』も『観光客の哲学』や『訂正可能性の哲学』も、何らかの普遍性を目指す書であるはずだ。でないとしたら何なのだろう。たとえ、それらが功利主義的に「こうした方がベターだからそうした方がよい」程度のものだったとしても、功利主義には功利主義を支える普遍的な理念が必要なのではないのだろうか。
「真理とは相対的なものである」という真理は普遍的なものではないのか。
私には、他人に「普遍性」を禁じておきながら、自分はしれっと「普遍性」のカードを切る「後出しジャンケン」に見える。

2025.10.4 少し加筆しました。

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