【超短編小説】使い古したハンカチ
駅前の横断歩道で、白いものが風にめくれた。
最初はレシートかと思った。
けれどそれは、きちんと四角く折られたハンカチだった。
拾おうとして、顔を上げる。
落とした人を確認するためだ。
——そして、少しだけ期待していた。
若い女性だったらいいな、と。
ドラマみたいに、「ありがとうございます」と微笑まれて、ほんの少し会話が生まれる。そんな都合のいい場面を、頭のどこかで想像していた。
だが、数歩先で振り返ったのは、くたびれた背広のおじさんだった。
「あ、それ、私のです」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に小さな落胆が生まれたのを、自分でもはっきり感じた。
——なんだ、おじさんか。
渡しながら、心のどこかで思ってしまった。
そのとき、おじさんは少し照れたように笑った。
「すみませんね。これ、よく落としちゃうんですよ」
差し出した手の中で、ハンカチは思っていたより柔らかかった。
端は擦り切れ、色も少し褪せている。
新品とはほど遠い。
けれど、不思議と捨てられなかった時間の重さが、そこにあった。
「これね、昔付き合ってた人にもらったんです。二週間記念ってやつで」
おじさんは、頼んでもいないのに話し始めた。
「営業が全然うまくいかなくてね。怒られてばっかりの頃で。でもこれ持ってると、なんとか頑張れる気がして」
笑いながら、ハンカチを広げる。
小さなシミ。ほつれた糸。何度も洗われた跡。
「もうボロボロなんですけどね。なんか、捨てられなくて」
その言葉を聞いたとき、さっきまでの自分の気持ちが、少し恥ずかしくなった。
若い女性のハンカチだったらよかった、なんて。
目の前の布切れには、誰かと過ごした時間や、うまくいかなかった日々や、それでも続いてきた人生が染み込んでいた。
ハンカチはただの布じゃなかった。
この人が、生きてきた証みたいなものだった。
「ありがとうございました」
おじさんは深く頭を下げて、また人混みの中へ歩いていった。
その背中を見送りながら思う。
汚れているとか、古いとか、そんなことで価値を決めてしまうのは簡単だ。
でも、それはきっと誰かの生きざまなんだ。
次に何かを拾うとき、
その向こうにある時間まで想像できる人でいたいと思った。
