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【掌編】それは消さないで

 女は待合室に入った瞬間からそわそわと落ち着かない素振りで、壁沿いに設置された来客用の椅子の一脚に腰を下ろすと何度も交互に真向かいの壁の中央に架けられた柱時計と左手首の腕時計に目をやった。しかし十分もするとそれに飽きたのか、もしくは初めてその部屋に自分以外の人間がいることに気が付いたのか、施術室のドアの左隣に設えてあるテーブルの向こうに座っている小柄な男に視線を動かした。男はよく庭園などで見かける陶器の置き物の小人が着ているような黄色のベストと緑のズボンを身に着け笑顔を浮かべている。女が「これで鍔のない赤い三角帽を被っていたら、本当に庭から小人の置き物が歩いてきたんだと信じてしまうくらい似ているな」と思ったところで施術室から背の高い痩せた老紳士が出てきて、ジャケットの内ポケットから札束を取り出すと小人男に向かって
「これで、間に合うかね?」
と尋ねた。
 小人男は
「お伝えした金額よりもずっと多いように思われますが」
と答えながら立ち上がった。座ったままでは礼を欠くと思ったのだろう。
「覚えていないのだよ、お約束したのがいくらだったのか。その記憶も一緒に飛んでしまったらしい。どうか受け取っておいてほしい。懐にこの金額を用意しておいたということは、最初からこれだけお支払いしようと思っていたのだろう。自分のことなのに、他人事のように話すのが少々もどかしいが」
「ご気分はいかがですか?」
「うむ、なかなか爽快だ」
 そう言って老紳士は小さく頷いて見せ、出入口のほうへ体を向けるとゆっくりとした足取りでその場を後にした。待合室を出る直前に老紳士が左のポケットから紙切れのようなものを取り出し、それを見てふっと笑ったのが女の目の端に映り、女は「写真だな」と思ったが、その紙切れが写真であるという事実よりも老紳士の笑顔に不安を覚え、女は素早く目を逸らした。
 再び待合室に小人男と二人きりになって、女は落ち着きのない動きで膝の上のハンドバッグの中で財布を開いてその中に入っている金額を確かめた。私も忘れてしまうのかしら、それはないのではないの、今日の私の依頼は通常のものとは違うのだから、と女が頭の中で自問自答している間にも、小人男は静かにテーブルの下の書類戸棚の鍵を開けて老紳士から受け取った札束を滑り込ませ、再び施錠すると立ち上がり、施術室のほうへ向かった。
 小人男はノックするが早いかドアを開け、施術室に頭だけ突っ込むと
「先生、次の方をお呼びしても?」
と尋ね、それから女のほうを振り返り、
「さ、どうぞ。先生もお待ちかねです」
と大きく微笑んだ。
 女は慌ててハンドバッグを閉じると立ち上がり、静電気で腿に張り付いたスカートを腿の皮から引き剝がすように左手で整えた。今一度化粧の具合も確認したいと思ったが、小人男は微笑んだまま開いたドアを支えて待っている。女はそのまま施術室の中へ向かうことにした。
 小人男の傍を通って施術室の中に入り、最初に女の目に入ったのは部屋の中央の直径一メートルほどの丸テーブルだった。真っ白なテーブルクロスをかけられた丸テーブルはまるで白のアイシングがたっぷりかかったホールケーキのようだ、そう思いながら女はテーブルから目を上げ、テーブルの向こうに立つ催眠術師を見た。それと同時に背後で小人男が外側からドアを閉める音がした。
 催眠術師は神経質そうな顔をした中肉中背の男で、今日は紺のスリーピーススーツを着ている。黒髪を後方へ撫でつけた髪型と言いこの顔つきと言い、この人は何者かを彷彿とさせる、と女はしばし考えを巡らせ、昔テレビで見ていたジェレミー・ブレットが演じるシャーロック・ホームズだ、と思い至った。前回会った時はそんなことを考える余裕もなかったのだろう。
 カーテンの降りた大窓を背にして立っていた催眠術師は口の端に微かに笑みを浮かべると丸テーブルの側の二脚の椅子のうちの一脚を指し示して
「ようこそいらっしゃいました。どうぞおかけください」
と女を促した。女が腰を下ろすと催眠術師も女と向かい合うように着席し、両手の指を軽く組んでテーブルの上に置いて再び口を開いた。
「私がご提供しているような療法では、同じお客様から複数回ご依頼をいただくケースは珍しいのですが。ああ、でも貴女が初めてではありません。ご安心を。どうされましたか? 他にも、忘れ去りたい思い出をお持ちですか」
「あの、私、自分でもなんて馬鹿なことをと思うのですけれど、あれだけのお金をかけてまで消していただいたのに……」
 そこまで言って、女は「まるで施術の料金に文句をつけに来たみたい」と思い、言葉に詰まった。
 生きづらさを感じる忌まわしい思い出をあなたの記憶から消しましょう。それがこの催眠術師の謳い文句だった。施術の条件はその忌まわしい思い出に関する写真を持ってくること。後は指定された金額を支払いさえせすれば、誰でもどんな記憶でも消してもらえる。看板に偽りなし、彼の施術の効果は絶対で、再度同じ客を相手にすることなど、実際ほとんどないのだろう。
 女が初めて催眠術師を訪ねたのは半年ほど前、春も終わろうかという頃だった。女は小刻みに震える手にもどかしさを感じながらハンドバッグを開け、その中から一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。催眠術師は黙って女の動きを目で追っている。
「あの、半年前、この写真に関する記憶を消していただきました。本当に忘れることができました。感謝しています」
「そして今日、貴女は同じお写真を持ってこられた」
 催眠術師の深く響きの良い声に恐れをなしたかのように女は目を伏せ、それから再び目を開いて催眠術師の顔を見た。
「戻して、いただきたいのです。あの日、消していただいた思い出を」
 催眠術師は表情を一切動かさず、
「理由をお尋ねしても?」
と返した。
 女は再び催眠術師から目を逸らし、くうを見るように視線を泳がせ、それから話し始めた。
「私あの後、記憶を消していただいた後、とても気分良く過ごしていました。衣類なんかも、今まで持っていたものでは陰気な感じがして、いろいろ買い替えたりしたんですよ。仕事でも褒められることが多くなって、自分が変わることで外側の世界が変わっていくってこういうことを言うのかなあって。嫌な思い出を消してもらえて本当に良かったって」
 そこまで言うと、女は今度は目線を下げ、テーブルの上の一点を見つめた。違う、催眠術師が聞きたいのはそこじゃない、その後だ。記憶が消えたことでそのような良い思いをしていたというのに、なぜまた記憶を戻してほしいなどと言い出したのか、だ。そんな言葉が頭の中を駆け巡ったが、順序立てて説明できる自信がなく、途方に暮れた。
「あの、詳しくは説明できないのですけれど、もっとも身近な人たちの反応が良くなかった、と言えば良いでしょうか。今の私はまるで私の顔をした別人みたい、と、母も親友も恋人も……」
「良いのです、全てを話す必要はありません。私の仕事にはお客様の事情はさして重要ではありません。ご記憶に触れる際に、どうしても拝見しなければならなくなってくる個人情報があるのは事実ですが。今貴女がお聞きになりたいのは、今回の貴女の依頼内容が実現可能かどうか、ですね?」
 催眠術師の言葉に女はテーブルから目を離し、催眠術師の顔を見た。そして、何の感情も読み取れないその顔に期待したらいいのか失望したらいいのか判断が付かず、ただ黙っていた。催眠術師は女と目が合うと一瞬の間を置いて、それから女が入室した時よりもずっと分かりやすく笑みを浮かべ、
「もちろん可能です。この種の要望が極端に少ないので施術する機会は多くはないが、持ち出せたものを再度運び込めない、などということはあり得ません。少なくとも私の技術に関しては、ね」
と言った。
 女は小さく吐息を漏らすと
「あの、お代金は」
と小さな声で尋ねた。
「思い出を消した時と同額でお願いします。よろしいでしょうか?」
 女は小さく頷くと、先ほどハンドバッグから取り出してテーブルの上に置いた写真に目を落とした。もう随分と色褪せていて霧がかかっているようにも見えるその写真には、幼い頃の自分ともう一人同じくらいの歳の女の子が庭の芝生の上で並んでカメラのほうを向いて写っている。二人の服装からして季節は夏だろう。背景にはまるで凝ったデコレーションケーキのような洒落た屋敷が一軒、ぽつんと佇んでいる。二人とも七歳か八歳と言ったところか。もう一人の女の子は誰なんだろう。この子とは仲が良かったのだろうか。今も連絡を取っている人たちのうちの一人なのだろうか。思い出したら私はまた、苦しむのだろうか。
 女の心の声が聞こえたかのように、催眠術師は静かに
「思い出を消される前の貴女は、とても辛そうにしていらっしゃいました。再び辛く苦しい人生を歩むことになるのですよ? そのことも充分お考えになりましたか?」
と問いかけた。
「ええ、もちろんです。それでも、以前の私に戻るのが最善の道だという答えを出したのです」
「分かりました。では、始めましょうか」
 そう言うと催眠術師は女がテーブルに置いた写真に左手を伸ばし、写真の置かれた角度が女の体の中心に対して直角になるように位置を整えた。そして立ち上がって女に近づき、「失礼します」と断って女の膝の上からハンドバッグを優しく取り上げてドアの脇に設置してある小さな戸棚の上に置き、それから再び女の真正面に着席した。
「そうですね、今回は利き手のほうを写真の上に置いていただきましょう」
 催眠術師の言葉に従い女は右手をそっと写真の上に置いた。
「なぜ、利き手なのですか?」
「利き手は何かと器用ですからね、失ったものが現れた瞬間にしっかりと掴み取っていただくため、と言ったらよいでしょうか」
「以前、『左手は受け取る手、右手は与える手』と聞いたことがあります」
「それは個々人で違います。そのような戯言はお忘れになったほうが良いでしょう。では、目を閉じてください」
 女は黙って目を閉じた。それと同時に、ほとんど場違いとでも言えるような安心感が心の中に広がった。既に催眠療法が始まっていたのかもしれない。一体いつ、どの瞬間に始まっていたのだろう。
「何か、感じますか?」
 催眠術師の問いに、女はまどろみながら
「いえ、何も…… あ、煙? 少しお香みたいな匂いを感じるような」
と答え、それからその煙の臭いがだんだんと強くなってくるのを感じ始めた。何か燃えているのじゃないかしら。火事? それなら逃げなくちゃ。でもこんなに眠たくて逃げることなんてできるのかしら。一体何が燃えたらこんな匂いになるのかしら。手が、右手が熱いわ。あら、燃えているのは写真じゃない! 何をしているの、手を離さなきゃ、このまま私が燃えてしまうわ。ああ、でもなんて眠いのかしら、それとも私はもう眠っているのかしら。熱いわ、熱いわ!
 女は「えはっ」と叫びにもならないようなおかしな音を喉の奥から出し、椅子の背にのけぞるように体を預けた。それと同時に女の右手が写真から離れそうになったが、催眠術師が女の右手を素早く抑えた。
「逃げては、いけませんよ」
 女は催眠術師が何か言葉を発するのを意識の片隅で捉え、催眠術師の顔が笑っているような感覚を覚えながら、深い無意識の中へ落ちていった。


 催眠術師が施術室から裏庭へ続く大窓を開けて外に出ると、ちょうど小人男がテラスのテーブルに茶を運んできたところだった。外気は冷たく、小人男は鍔のない赤い三角帽を被っている。催眠術師の席には毛布が置いてあった。
「君はいつでも準備がいい。ありがとう」
 そう言いながら催眠術師は足元の落ち葉をつま先で少し弄び、それから毛布を広げてそれに身を包むと席に着いた。小人男は二つのティーカップに茶を注ぎ分けるとそのうちの一杯を催眠術師の前に置き、それから庭を背にするように催眠術師の向かいの席に座った。
「しかしまあ、驚きましたね。うちのサロンからあんな形相で帰っていったのは私が知る限りあの女性が初めてですね」
 小人男がそう話し始めても、催眠術師はすぐに答えようとはせず、まず茶を啜り、テーブルの中央にある茶菓子の皿から胡桃が丸ごとチョコレートで接着されたクッキーを選ぶとその端を少しかじって、それから口を開いた。
「そりゃ、長年苦しみぬいた上で消してほしいと私を頼ってきて消された記憶を取り戻してしまったんだ。今は以前よりももっと苦しいのかもしれない」
「写真、捨てないんですね。いやね、皆さんその嫌な思い出の記憶を消されたらそれに関する写真もどうでもよくなって捨ててしまうのではないのかと思っていたのですが、先ほどの女性は今まで取っておいていたわけですよね」
「実はね、あの人は最初から特殊なケースだったんだ」
 そう言って催眠術師は更にクッキーをかじろうとしたが、中央の胡桃は一度に口に入れない限り摂取不可能だと判断したのか、結局クッキーを丸ごと口の中へ放り込んだ。小人男は茶を啜りながら催眠術師の話の続きを待っている。
「半年前にあの写真にまつわる思い出を消した際、あの女性は催眠状態にあるにもかかわらず言ったんだ、『それは消さないで』とね。とても強い自我を持っている人物だと思われる。私の術中にありながら自力で意思表示できる人にはそうそう出会えるものではない。だから彼女の意向を尊重して、思い出の全ては消さなかった。一部を残したんだ。それで不具合が起きてしまったのかもしれない。……きっと、そうなんだろう」
「先生の技術がそこまで細かな調節の利くものだというのも驚きです」
「ふん、見くびられたものだな」
 催眠術師の言葉に小人男は大きく微笑み
「お仕えし甲斐があるというものです」
と返すと残りの茶を啜り上げ、椅子から降りた。それから「一休みしたらお夕飯の準備をしますね」と言い添えて庭の隅まで歩を進め、立ち止まるとその場で陶器の置き物と化した。
 催眠術師は
「いいよ、今日は私が作ろう。面倒な依頼を片付けられた記念すべき日だからね、私も機嫌がいいんだ」
と空へ向かって話しかけた。
 返事はなかったが、庭の隅から小さな木枯らしが吹いて落ち葉を一枚巻き上げ、その風に乗った落ち葉は催眠術師の足元に静かに着地した。それが小人男の答えのようだった。
 催眠術師は小さく声をたてて笑うと、次の茶菓子に手を伸ばした。


『それは消さないで』21 x 27 cm 水彩、万年筆


【解説】
本記事はピリカ文庫に寄稿しています。こーたさんからお話をいただいた当初は「最初のピリカ文庫に寄稿した『その名はカフカ』(2023年1月公開)を下書きに戻すという不義理を働いた私なんぞが書いても良いのでしょうか」という思いも強かったのですが、橘鶫さんとのペア、というご提案の誘惑には抗えず、筆を手にした次第です。
 今回のテーマは「写真」。相変わらず与えられたテーマがサブアイテムになってしまう書き方ですが、楽しんでいただけたのならば幸いです。
 久々の掌編小説執筆となりました。こーたさん、良い機会を与えてくださり、ありがとうございました。