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本多正信(ほんだ まさのぶ) 拙者の履歴書 Vol.233~殿に弓を引いた男が、江戸の政を回した~

この「拙者の履歴書」は、日経新聞の名物コラム「私の履歴書」をもしも戦国武将が書き記したら、という空想企画です。

第233弾は、本多正信(ほんだ まさのぶ)。一度は主君に弓を引いて出奔しながら、帰参ののちは徳川家康の側近第一となり、江戸幕府草創の政(まつりごと)を差配した男です。本人と一緒に、彼の人生を振り返ってみましょう。


一、鷹匠の子

拙者は本多正信。通称を弥八郎と申す。天文七年(1538年)、三河国の生まれでござる。

父は本多俊正。鷹匠、あるいは鷹匠を束ねる家筋であったと伝わる。拙者はその次男でござった。

ここで一つ、はっきりさせておきたい。同じ三河に本多平八郎忠勝どのという豪傑がおられるが、あれは同じ本多でも早くから別の系統でござる。同じ家と思うてくださるな。あちらは槍で食う家、こちらは鷹で食う家でござった。

弟に正重がおる。これは拙者と違うて、生涯を槍で押し通した男でござる。同じ腹から出ても、こうも違うものかと思う。

若い頃、拙者も鷹匠として岡崎の殿——当時はまだ松平元康と名乗っておられた——にお仕えしたと伝わっておる。もっとも、これは後の世の系図や逸話書が書いておることで、同じ頃の書付に見える話ではござらぬ。ただ、拙者の家が武功の家でなかったことだけは、どの書物も一致しておる。

二、足

永禄三年(1560年)、桶狭間。

拙者は今川方の松平勢として、大高城への兵糧入れに従うたと伝わる。そしてこの折に膝を傷め、以後、足が不自由になったのだと。

……別の書物は、後年の流浪の途上、加賀で負うた傷だと申す。どちらが本当か、拙者の側から証してやることはできぬ。足が利かなんだこと自体は、あちこちの伝えが揃うておるがな。

戦場を走れぬ体で、武辺者ばかりの三河の家中に居場所を作らねばならぬ。拙者が知恵の側に回ったのは、格好をつけて申せば思案の末でござるが、正直に申せば、他に道がなかったのでござる。

三、主君に弓を引く

永禄六年(1563年)、三河一向一揆。

拙者は熱心な真宗の門徒でござった。弟の正重ともども、一揆の側に付いた。すなわち、殿に弓を引いた。

拠点の一つが本證寺——今の安城の寺でござる。拙者もそこに拠った一人でござった。

後の世の物語は、拙者を一揆方の軍師だの首謀者だのと描いてくれる。ありがたい話ではあるが、当たってはおらぬ。あの時の拙者は二十六の小身者にすぎぬ。旗を振る側ではなく、旗の下におった側でござる。

永禄七年(1564年)、一揆は鎮められた。門徒に付いた家臣の多くは詫びを入れ、帰参を許された。拙者は、それをせなんだ。

なぜか、と問われても答えに窮する。信心ゆえと申せば聞こえがよいが、あの時の拙者に、そこまで筋の通った思案があったとは思わぬ。ただ、殿の前に手をついて詫びる気になれなんだ。それだけでござる。

拙者は三河を出た。

四、空白の十数年

ここから十数年、拙者がどこで何をしておったか、確かなことは何一つ残っておらぬ。

加賀へ下って一向一揆の勢に身を投じたとも申す。大和へ流れて松永久秀どのに仕えたとも申す。久秀どのが拙者を見て「徳川の侍は武勇一辺倒の輩が多いが、この男ひとりは剛にもあらず柔にもあらず、非常の器よ」と評されたという話も伝わっておる。

……あの評言が載っておるのは、拙者が死んで百年近く後に編まれた書物でござる。大悪人と呼ばれた男が、まだ何者でもない浪人の中に大器を見抜いておった——という話は、どうにも出来がよすぎる。話半分に聞いていただきたい。

確かなのは、拙者が禄を失うた男として十数年を過ごした、ということだけでござる。世間というものは、上から見るのと下から見るのとでは、まるで違う景色をしておる。門徒の暮らし、商人の勘定、寺の内証、大名の噂の伝わり方。それらを拙者は、禄をもらう側ではなく、もらえぬ側から見た。

後の世は、この十数年が拙者の政の眼を養うたのだと申す。そうかもしれぬ。だがそれは、拙者が後に用いられたからこそ言える話でござろう。用いられなんだ浪人の十数年は、ただの十数年でござる。

五、帰参

いつ徳川へ戻ったのか、これも判然とせぬ。元亀元年(1570年)の姉川の頃と申す書物もあれば、天正十年(1582年)の本能寺の少し前と申す書物もある。十年余りの開きがある話を、拙者が今さら詰めてやることもできまい。

取りなしてくださったのは大久保忠世どのだと伝わっておる。出奔しておる間、拙者の家族の面倒まで見てくださったとも。

これは大久保の家の書き物が伝えておる話ゆえ、大久保のご恩は幾分大きく書かれてもおろう。されど、主君に弓を引いて逐電した男が戻るのに、誰かの口添えなしで済んだとは思えぬ。忠世どのには、返せぬ借りがある。——後年、拙者とあの家との間に起こったことを思えば、なおさらでござる。

天正十年(1582年)の本能寺の変の後、伊賀越えのお供に加わっておったとの伝えもござる。天正十四年(1586年)、従五位下佐渡守に叙された。以後、拙者は「佐渡」と呼ばれた。

六、玉縄二万二千石

天正十八年(1590年)、小田原が落ち、殿は関東へ移された。拙者は相模玉縄の城を賜った。二万二千石。一説には一万石とも申す。

以後、拙者は江戸の町割りや関東の民政に手を入れた。青山忠成どのらと分けて差配した。田の割付、水の道、寺社の扱い、宿場の掛かり。槍では一寸も進まぬ仕事でござる。

この玉縄二万二千石を、拙者は生涯そのままにいたした。加増の話は幾度もあったが、みなお断り申した。

後の世は、これを美談として語ってくれる。だが拙者の肚は、もう少し薄汚い。権を握る者が禄まで貪れば、必ず妬まれる。妬まれた者は、必ず落ちる。拙者は落ちたくなかっただけでござる。

七、中山道

慶長五年(1600年)、天下分け目の年。

先に申し上げておく。拙者は関ヶ原の野におらぬ。

拙者は秀忠様に付き、中山道を上っておった。途中、信濃上田の真田安房守昌幸どのが立ちはだかり、軍議となった。その席で拙者は「城は押さえを置いて捨て置き、西へ急ぐべし」と申し、大久保忠隣どのは攻めるべしと申した——と、後の書物は伝えておる。

そう伝えられておるだけでござる。ましてやそれは、拙者と大久保の家との間が険しくなってから書かれた物語でござる。誰と誰を向かい合わせに座らせるかは、書き手の胸三寸でござろう。

秀忠様の御軍は九月十五日の本戦に間に合わなんだ。因は一つではない。大雨で川が出た。行軍の日程が詰まりすぎておった。大御所様からの御指図の伝わりも遅れた。「佐渡の申すことを聞かなんだゆえ遅れた」という筋書きは、後の世が話を分かりやすくするために拵えたものでござる。

ただ、間に合わなんだことは動かぬ。あの時の秀忠様の御顔は、拙者も忘れられぬ。

八、父子、相並びて

慶長八年(1603年)、江戸に幕府が開かれた。拙者は年寄——後の世に申す老中でござる——として政の内に入った。

慶長十年(1605年)、秀忠様が二代将軍の宣下をお受けになり、大御所様は駿府へ移られた。ここから、天下に政の場が二つできた。

拙者は江戸に残り、秀忠様のお側に侍った。嫡男の正純は駿府へ上り、大御所様のお側に侍った。父が新しい将軍に付き、子が大御所に付く。江戸と駿府の間を、この父子が繋いだ。

後の世に新井白石という学者が、これを「父子あひならびて天下の権をとる」と書いておる。褒め言葉ではござるまい。だが、否む気もない。あの頃の徳川の政は、確かに拙者と倅の手を通っておった。

なぜ拙者が江戸で、倅が駿府であったか。理屈は幾らでもつくが、拙者が思うに、大御所様は倅の方をお近くに置きたかったのでござろう。あれは拙者より仕事が速い。……そして、拙者より遠慮を知らぬ。

九、慶長十八年、十九年

慶長十八年(1613年)、大久保長安が死んだ。死んだ途端に蓄えの不正が咎められ、遺された子らは尽く切腹となり、縁に連なる者が次々と処断された。

翌慶長十九年(1614年)正月、大久保忠隣どのが改易された。六万五千石と年寄の職が、一日で消えた。

後の世は申す。あれは本多父子の讒言によるものだ、と。この筋書きは江戸の御代に編まれた書物が伝え、公儀の御記録にも引き継がれた。今も広く信じられておる。

拙者は否まぬ。否まぬが、認めもせぬ。同じ頃の書付に、拙者が大御所様へ讒訴した証は残っておらぬからでござる。忠隣どのの改易には、届け出なき婚儀のこと、長安の一件との連なり、豊臣家との近さ、秀忠様の御側で膨れすぎた勢い——幾つもの因が挙げられており、どれが真であったかは今もって分からぬ。

分かっておるのは、あの頃、譜代の門閥が次々と削られていったということ。そしてその後に残された者の一人が、拙者であったということでござる。

……忠世どのに借りを返せぬまま、その御子の家が潰れるのを、拙者は江戸で見ておった。それだけは、書いておく。

十、五十日

慶長十九年(1614年)の冬、大坂の陣。拙者は講和の掛け合いに関わった。

後の世は、講和の後に堀を埋めさせた策を拙者の仕込みだと申す。倅の献策だと申す書物もある。どちらにせよ、結末から逆に筋を通した話でござろう。翌元和元年(1615年)の夏、豊臣家は滅んだ。

元和二年(1616年)四月十七日、大御所様が薨去された。

拙者は家督を倅の正純に譲り、政から一切退いた。そして、およそ五十日の後、六月七日に死んだ。享年七十九。

殉じたのだと申す者もある。そう格好のよいものではござらぬ。七十九の年寄が、五十年寄り添うた相手を喪うて、することがなくなっただけでござる。

後の世は、大御所様が拙者を「友」と呼ばれたと語る。その言い方の出どころは、これも新井白石が「朋友の如し」と書いたあたりでござって、大御所様御自身がそう仰せられた証はござらぬ。

されど——武辺の者たちが拙者を佞人と罵り、腰抜け佐渡と嘲っておったのは事実でござる。それでも大御所様は、拙者を側に置き続けられた。何と呼ばれておったかは知らぬ。呼ばれずとも済んでおった、とだけ申しておこう。

辞世は詠まなんだ。少なくとも、拙者の歌として確かに残っておるものはない。

倅の正純には、一つだけ言い置いた——と伝わっておる。「我が死後、汝は必ず加増を賜るであろう。三万石まではお受けせよ。それより上は決して受けるな。受ければ必ず禍が降る」と。

これも江戸の御代の逸話書にある話で、そのままの言葉であったかは分からぬ。分からぬが、倅がその後、宇都宮十五万五千石まで昇り、そして元和八年(1622年)に全てを失うたことだけは、確かでござる。

拙者の申したことが当たったのではない。当たったことに、されたのでござろう。

後書き

本多正信は、天文七年(1538年)に三河国で本多俊正の次男として生まれ、元和二年六月七日(1616年7月20日)に死去した徳川家康の側近です。享年七十九。通称は弥八郎、天正十四年(1586年)に従五位下佐渡守に叙任され、「本多佐渡」と呼ばれました。法号は善徳納誨院。『寛政重修諸家譜』は「本願寺に葬る」と記しますが、現在確実に特定できる墓所はなく、三河一向一揆の拠点であった愛知県安城市の本證寺に供養墓があります。

正信の家は三河譜代ですが、本多忠勝の家(平八郎家)とは早くから別系統で、鷹匠あるいは鷹匠支配の家筋であったと伝わります。弟に本多正重、子に嫡男・正純(幕政中枢。元和八年に改易)、次男・政重(加賀前田家の筆頭家老家の祖)、三男・忠純がいます。足が不自由であったという伝えは複数の所伝にありますが、原因は桶狭間の戦傷説、流浪中の加賀での戦傷説があり確定しません。

永禄六年(1563年)の三河一向一揆で弟・正重とともに一揆方に加担し、翌永禄七年の鎮圧後、多くの一揆方家臣が帰参を許される中で徳川家を出奔しました。以後十数年の足取りは史料的にほとんど分からず、加賀の一向一揆に投じたとする説、大和の松永久秀に仕えたとする説がありますが、いずれも同時代史料での確認はできません。帰参の時期も元亀元年(1570年)頃から天正十年(1582年)頃まで諸説あり確定せず、大久保忠世の取りなしがあったと伝わります。

天正十八年(1590年)の関東入国で相模玉縄二万二千石(一説に一万石)を与えられ、青山忠成らとともに江戸の町割りや関東領国の民政にあたりました。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に付属して中山道を進み、本戦には参加していません。慶長八年(1603年)の開幕後は年寄(老中の前身)として幕政を主導し、慶長十年(1605年)に秀忠が二代将軍となり家康が駿府へ移ると、正信は江戸で秀忠に付き、嫡男・正純は駿府で家康に付くという形で、父子が大御所政治の二つの中心を結ぶ役割を担いました。新井白石はこれを「父子あひならびて天下の権をとる」と評しています。慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣では講和交渉に関与。元和二年(1616年)四月十七日に家康が没すると家督を正純に譲って政務を退き、約五十日後の六月七日に死去しました。

主な典拠は、本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館、2010年)、藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館・人物叢書、2020年)、藤井讓治『江戸幕府老中制形成過程の研究』(校倉書房、1990年)、笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、2007年)、福田千鶴『徳川秀忠』(新人物往来社、2011年)、新行紀一『一向一揆の基礎構造——三河一揆と松平氏』(吉川弘文館、1975年)、平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)です。江戸期の系譜・編纂物として『寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)、『新訂増補国史大系 徳川実紀』(吉川弘文館)、新井白石『藩翰譜』、大久保彦左衛門忠教『三河物語』(日本思想大系26『三河物語 葉隠』岩波書店、1974年)を、同時代性の高い記録として『当代記・駿府記』(続群書類従完成会)を参照しました。『本佐録』の成立と偽書説については日本思想大系27『近世武家思想』(岩波書店、1974年)の解題によっています。

初出時の記事には、次のような誤りがありました。

第一に、父の名です。旧稿は「父は本多正重(一説には正次、正秀とも)」としていましたが、正重は父ではなく弟です。正信の父は本多俊正で、正重は正信とともに三河一向一揆で一揆方につき、のち帰参して武辺者として知られた人物です。旧稿には弟・正重が一切登場せず、嫡男・正純も含めて家族関係の記述を欠いていたため、本稿で補いました。

第二に、関ヶ原の戦いにおける立場です。旧稿は、正信が家康の命で諸大名への調略に奔走し、小早川秀秋の寝返り工作にも関与し、家康が伏見城の軍議で「正信の策こそ我が勝利の基」と評した、と描いていました。これは事実と異なります。正信は徳川秀忠軍に付属して中山道を進軍しており、九月十五日の関ヶ原本戦には参加していません。したがって本戦前後の調略の中心にいたという構図も、家康からその戦功を賞されたという場面も成り立ちません。西軍諸将への調略は主に黒田長政らが担いました。なお、上田城攻めをめぐる軍議で正信が西上を主張し大久保忠隣が攻城を主張した、という有名な対立の構図は江戸期の編纂物によるもので、秀忠軍の遅参を特定の個人の責任に帰す見方は現在では採られていません(本連載Vol.231・大久保忠隣の稿と同じ扱いとしました)。

第三に、大御所政治における父子の配置です。旧稿は、家康が駿府へ移った後も「拙者は家康公に随い」、駿府城で家康の側近として政策立案に関わったとし、「表は江戸、裏は駿府」という二元政治の調整役であったと記していました。実際は逆で、正信は江戸に残って二代将軍・秀忠付きの年寄となり、駿府で家康の側近筆頭格を務めたのは嫡男・正純です。父子がそれぞれ江戸と駿府に分かれて配されたことこそが、本多父子の権勢の核心でした。この点は本連載Vol.234・本多正純の稿と対応しています。

第四に、出奔後の十数年です。旧稿は、正信が石山本願寺や長島の一向宗拠点に身を寄せ、寺内で全国の情勢を掌握する立場にあり、西尾城の攻防でかつての同僚と対峙した、と一章を割いて描いていました。これらを裏づける史料はありません。出奔後の正信の足取りは史料的にほとんど不明で、伝わるのは加賀の一向一揆に投じたとする説と、松永久秀に仕えたとする説(いずれも後世の編纂物による)です。あわせて旧稿は、大坂の陣に際して正信が石山本願寺時代の経験から城の構造や弱点を熟知しており攻略の一助となった「ことは間違いありません」と断じていますが、石山滞在そのものが確認できない以上、この因果は成立しません。

第五に、帰参の時期です。旧稿は「天正七年(1579年)頃、四十一歳」と特定していましたが、帰参の時期は元亀元年(1570年)の姉川前後とする説から天正十年(1582年)の本能寺の変直前とする説まで幅があり、確定していません。旧稿はまた、正信が十三歳で松平家に仕え始め松平広忠・竹千代とも幼少から縁があった、伊賀越えでは後方支援に尽力した、などと記していますが、これらも裏づけを欠きます(伊賀越えについては供奉したとの所伝があるのみです)。

第六に、没年と享年です。旧稿は「家康公の死去から数ヶ月後」に「七十八歳」で没したとしていますが、家康の死去は元和二年四月十七日、正信の死去は同年六月七日で、間隔は約五十日です。享年は七十九です。

第七に、江戸城についての記述です。旧稿は天正十八年(1590年)の関東入国の場面で「当時の江戸城天守からの眺めは格別にて」と述べていますが、江戸城の天守が築かれるのは慶長十一年(1606年)以降で、入国当時に天守はありません。また、旧稿が挙げる「城は単なる防御の拠点にあらず」以下の江戸の町づくりへの具体的な進言も、正信個人の言葉として確認できるものではありません。

このほか、旧稿が家康の言葉として掲げた「正信の目は世の中を広く見ている」「正信、この地を天下の中心とするぞ」「汝の智謀あればこそ」、正信自身の言葉とする「戦は、刃を交える前に勝敗が決する」「城は結局のところ人心によって守られるもの」「臥薪嘗胆、忍耐と智慧こそが乱世を生き抜く術なり」は、いずれも典拠のない創作です。正信には確実な辞世がなく、本人のものと一次史料で確認できる言葉も事実上ありません。長く正信の著作とされてきた治国論『本佐録』も、現在は正信に仮託された偽書とみるのが主流です。今回の改訂では、伝承として伝わる事柄はその旨が分かる書き方に改め、あわせて弟・正重、玉縄二万二千石と加増の固辞、大久保忠世による帰参の取りなし、大久保長安事件と大久保忠隣の改易、嫡男・正純への戒めとその後の改易といった、正信を語るうえで欠かせない事柄を補いました。

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【改訂履歴】
・2025年3月22日 初出
・2026年8月4日 全面改訂(歴史研究の文献と照合し、生没年・系譜・合戦の経緯など事実関係を見直しました。伝承・俗説に由来する逸話は、その旨が伝わる表現に改めています)

【読者の皆さまへ】
本連載は空想企画ではありますが、お読みくださる方に誤った歴史をお伝えしないよう、研究文献と照らし合わせながら内容の見直しを続けています。それでもなお、至らぬ点や誤りが残っているかもしれません。お気づきの点がございましたら、コメント欄でご指摘いただけますと幸いです。内容を確認のうえ、記事へ積極的に反映してまいります。

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