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わたしの紹介②|冬の時代「浪人」、謳歌した「大学」、そして「研究」の道へ

こんにちは。diceqです。
続けてNote投稿していきます。
書いてみて、「あ、もっとこういうことを書きたかったなー」という感情も出てきて、公開済みの記事も気が向いたら更新させていただこうかなと思います。

連載テーマ

以下のテーマを軸に、連載形式で少しずつ書いていく予定です。
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第一部:これまでの歩み 
 ー幼少期、小・中・高校、浪人、大学、大学院、社会人、転職

第二部:結婚、家族と子育て
 ー妻との出会い、結婚、子ども4人の6人家族、子育て、お金の流れ

第三部:第三の場所
 ー仕事と家庭とは別の居場所

第四部:50歳からの過ごし方 
 ー未来の地図
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この頃を振り返ると・・・

私の人生において、浪人時代は完全なる冬の時代。
最後の追い込み時期は、人間として自分の弱さが露呈しました。
幸いにも第一志望に合格でき、神様に感謝してます。
その反動で大学時代の前半は謳歌しました。
途中で転機があり、それをきっかけに研究活動の道へ入っていきました。

私には、子どもが4人います。そのうち2人(長女と長男)は大学生です。
二人とも「好きなこと」「大事なこと」を見つけ没頭してほしいと切に思います。

同世代の方や、これからの生き方を考えている誰かに、少しでも共鳴する部分があればうれしいです。

第一部:これまでの歩み ー浪人、大学

浪人時代:

予備校

浪人時代は、駿台予備校に通いました。
今振り返ると、あの一年は間違いなく、人生の中でもかなり真剣に勉強していた時期だったと思います。
ただ、「大学でこれをやりたい」という明確な動機があったかというと、正直そこまでではありませんでした。いや、なかったです。

プライド

「国立理系志望」という肩書きと偏差値を、ひたすら追いかけていた感覚に近いです。進学校出身という、今思えば少し心もとないプライドに、背中を押されていたのかもしれません。

予備校での成績

夏まで愚直に積み上げた努力は、秋頃から少しずつ形になりました。
東北大模試では成績優秀者として名前が掲載され、東工大模試はA判定、早稲田大学理工学部もB判定。
数字だけを見れば、順調そのものだったと思います。

暗雲 ・・センター試験で撃沈

ただ、12月末になると、疲れも出始め、「まあ、なんとかなるだろう」という油断もありました。その結果、センター試験は思うようにいかず、得点率はおそらく73%前後。
偏差値志向で目指していた自分にとって、その数字は一気に現実を突きつけるものでした。
今になって思えば、センター試験という試験そのものに、ほとんど向き合えていなかったのだと思います。
国語は古文をほぼノー勉、社会は日本史を選択するという無謀さ。国立理系なら地理選択ですよね。
それすらもわかってなかった。
計画性も戦略も不十分なまま本番を迎え、「試験対策の大切さ」を身をもって知ることになりました。

受験校

そんな状況にもかかわらず、なぜか私立受験は、早稲田、上智、東京理科大(3学科)の合計5つ。
滑り止めのない状態で突っ込みました。異常な精神状態だったんだと思います。
父親の「模試の優秀者で名前の載ってた東北大の方が受かりやすいんじゃないの?」という非常に軽い発言を真に受け、理系志望であればメインの国立大学を、あっさりと、東工大から東北大工学部へ変更してしまいました。
今にして思えば、私の志望度はその程度でした。有名大学ならどこでもいい。決して褒められない、最低なメンタルですね。

受験結果

2月上旬に東京理科大を3つ受験。
余裕だろうとなぜか強気。結果は1勝2敗。
工学部情報学科に合格。他は確か電気系。甘くはなかった。

不安をぬぐい切れぬまま、次に上智大学理工学部を受験。
本当は慶応大学理工学部を受けるつもりだったが、モチベーションがダダ下がりだったため、受かりそうな上智に切り替え。結果、不合格。

絶望の中、早稲田大学理工学部を受験。
最初の数学でやらかし、その後の英語、理科二科目をなんとかやり切った感じ。手ごたえなんぞ全くなかったです。

早稲田の受験結果を見る前に、東北大工学部を受験しに二泊三日で仙台へ。不思議と旅行気分でした。
どうでもいいことですが、宿泊先のホテルで、このとき生まれて初めて静電気(ドアノブをさわるとパチンっ!とするやつ)を体験しました。痛かったです。どうして覚えているんだろう・・・。不思議です。

早稲田大学理工学部の合格発表

電報を自宅で待たず、なぜか早稲田大学まで行って合格発表を見ようと思いました。
最初、間違って本部キャンパスに行き、受験番号がなく、おろおろしてたときに、「理工学部は大久保キャンパス(今の西早稲田キャンパス)ですよ。」と大学職員の方に教えてもらい、大久保キャンパスまで走って行きました。
すでに結果を見終わっていて、人がほとんどいない閑散とした合格発表の掲示板の前。
なんと自分の受験番号があったんです。その感動は今でも忘れません。
近くにあった戸山公園の公衆電話から母親に合格したことを伝えました。
偏差値や有名度でしか見てなかった私にとって、事実上の第一志望だった早稲田大学理工学部に合格することができました。
数学は正直かなり厳しかったのですが、あとで予備校の採点をみましたら、英語が自分でも驚くほどよくでき、ほぼ満点に近い感覚でした。
おそらく、それが決め手だったのだと思います。
費用面でみても、地方の国立大学で一人暮らしをするよりも、自宅から大学に通う方が経済的でした。自宅から大久保キャンパスまで、片道1時間半でしたが苦になりませんでした。

振り返り

浪人時代の受験結果としては、自分なりに納得できる、これ以上ない着地でした。
「本当によかった」と、心から思えたのを覚えています。
両親がとても喜んでくれたことも、今でもはっきりと記憶に残っています。
ただひとつ言えるのは、大学受験だけは、もう二度とやりたくない、です。ちなみに、早稲田大学理工学部の他、東京理科大工学部情報学科(だったと思う)にも合格しました。
また、現役時代を真剣にやるべきだった。
真剣とは、逃げ道を作らず、背水の陣でやり切ること。
浪人時代は、なんだかんだ言って、逃げなかったから、ぼろぼろながらも神様が合格を与えてくれたと思いました。
でも、このときは、まだ「好きなこと」「大切なこと」がなく、人との比較で生きてました。それがしばらく続きますが。

大学生時代:

解放感を満喫

浪人を経て進学した、早稲田大学理工学部 電子通信学科での大学生活は、しばらくの間、強い「解放感」に包まれていました。
1〜2年生の前半までは、とにかくよく遊びました。実験班を中心に10人ほどの仲間ができ、気づけばいつも誰かと一緒にいる日々。
彼女もできました。今の妻です!(妻との人生振り返りは別編でお話します。)
毎日は楽しく、先のことはほとんど考えていませんでした。

今思えば、大学に入ったら試験がある、という当たり前のことすら、どこか他人事でした。
「大学=自由に遊べる場所」
そんな、少し世間知らずなスタートだったと思います。

早稲田大学理工学部は、西早稲田キャンパス(当時は大久保キャンパス)にあります。すぐ隣には戸山公園があり、秋になると紅葉がとてもきれいです。都心の真ん中にありながら、ふっと息が抜ける場所。
妻と出会ったのもこの地ですし、後に長女が通った高校もこのキャンパスのすぐ隣でした。振り返ると、私の人生は西早稲田という街に、何度も導かれてきたような気がしています。

「このままではいけない」と思った転機

「大学で何を学ぶのか?」
最も大切な問いを、しばらく棚上げにしていた頃、ひとつの転機が訪れます。
親戚のおじさんの誘いで、ドイツ・フランクフルトへ短期留学(2週間ほどでしたが)することになりました。
おじさんはクラシック音楽が好きで、自宅にレコード専用のリスニングルームを作ってしまうような人。
70歳近くになって「ドイツ語を学びたい」と思い立ち、そのサポート役として声をかけてくれました。
しかも費用は、まさかの全額持ち。今思っても、ありがたい話です。
海外で生活し、多国籍の学生たちと触れ合う中で、強烈に感じました。
「このままではいけないな」と。

大学での勉強

帰国後、初めて大学の勉強に正面から向き合うようになります。
通信学科は1学年100人ほどで、早稲田大学理工学部の中では比較的小さな学科でしたが、日本の情報通信を切り拓いてきた歴史ある学科です。
2年後半から専門科目が増え、少しずつ面白さが見えてきました。
1990年代は、Windows95やインターネットが国内に立ち上がった時期でしたので、タイムリーな情報を大学の授業で得ることができました。
3年生のプログラミング演習では、器用とは言えないながらも、試行錯誤しながら自力でコードを書き、レポートを仕上げました。徹夜もしましたが、不思議と苦ではありませんでした。
「こういう作業、案外向いているのかもしれない」
そんな感覚を、初めて持った気がします。

研究室配属

学部4年では、情報ネットワーク系の人気研究室に所属しました。
2年後半~3年までの1年半の頑張りで、成績をあげ、何とか入れました。
大きく二つに分かれ、ネットワーク系、または画像処理系。
私はやった結果がトラフィックシミュレーション結果のグラフとかではなく、目で見えるものがよかったんで、画像処理系を選びました。
これまで、受け身な学習をしてきた、また、研究室でこれを突き詰めたいという思いがなかった自分にとっては、正直つらいスタートでした。

研究テーマ探し

拙いながら考えたのは、将来のテレビ会議システムで「正面を向いた顔映像」を生成する仕組み。
これは遠隔地の話者同士がテレビ会議で視線を一致させ、リアリティあるコミュニケーションを実現するもので、卒論ではその基礎検証をしました。
モニターの周囲に配置した4台のカメラ映像から、画像処理により、真正面の顔画像を推測し自動生成する、というアイデアです。
30年近くたった今では、ZOOMやTeamsといったコミュニケーションサービスが普及しましたが、いまだに話者の視線が一致してません。
ユーザはあまり気にもならないのかもしれませんが・・・。

ダメだしの連続

一緒に研究活動していた松下電産(現パナソニック)から来ていた社会人博士課程の方には、散々否定されました。
「そんなの、できないよ。どうやるの?」と。グループ定例で大勢いる場で刺されまくりました。
夏の中間報告は軽井沢合宿でやりました。2日間ほぼ不眠で資料を作り、そのまま車で友人を乗っけて長野の追分キャンパス(合宿地です)へ向かいました。今思えば、居眠り運転をしなかったのが奇跡です。
完全にアドレナリンで動いていました。中間報告では、どうしようもないほどのダメ出し。自分のスペックの低さを嘆きました。

小さな成功体験

それでも、厳しい昭和仕込みな少年サッカーをやってきた私は、どうにかして乗り切りたい、という思いであの手この手を打ちました。
冬の最終報告までには私はやり切りました。カメラの並べ方に拘束条件をつけ、4視点の画像から正面画像を生成し、実画像との比較による定量評価まで行うことができました。
あのときの達成感は、今でもはっきり覚えています。卒論はその成果をもとに書き上げ、無事卒論を完成させました。

特許出願と展望

教授からは「これはコロンブスの卵だな。学術的にはレベルは高くないが、アイディアはいい。特許をとっておこう。」と。その教授の勧めもあり、さらに特許として出願。学生でしたが、請求項から図面まで全部自分で書き、特許事務所の先生に添削いただきました。当時、大学の研究成果を民間活用するという動き(TLOという組織が推進)があり、その権利を大和総研に売却するという、少し珍しい経験もしました。
小さな成功でありましたが、自分には大きな一歩でした。これをきっかけに「研究開発」というものの距離感がぐっと近づきました。変な自信も身に付きました。

最後に

最後まで読んでいただいたみなさま、ありがとうございます。
今回はここまでにしたいと思います。
次回は「第一部:これまでの歩み ーー大学院」を書きます。
引き続き、よろしくお願いします。

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