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西洋哲学批判としての『「偶然性」の問題』、の問題

西洋哲学は決定論的な立場を重んじてきた。
て言うか、人は「何かに動かされている」といつも思わされてきた。
その一方で、「偶然」を信じ、偶然の慶事や偶然の出会いを待望し、偶然の死別を悲しんだ。
そこに「必然」はなかった(はずだ)。
そして、人はそれを信じたかった。
だからYUKIちゃんが「JOY」を歌うのもわかるし、ドリカムだって歌っている。

「10000回だめで 望みなくなっても 10001回目は 来る」

この曲は東北の震災の直後にしばしば歌われたそうだ。
偶然見舞われた震災というものに対して、希望という可能性を信じること。
たぶんだめだろうと思われる10000回のトライのあとの10001回目にすべてを託すこと。
事態が急変することよりも、「変わる」という強い希望を持ち続けることに、この曲を歌った吉田美和も「一縷の望み」を賭けたのであろう。
単に「元気が出る曲」であるという範疇を超えて、世界のありかたにダイレクトに「復活(復興)という偶然性」をもちこんだその強さ、そのしたたかさ、その逞しさ、すべては完全で美しい、と九鬼周造先生もほめたかもしれない。

そんなのは、弱い人間のもつ信仰みたいなものだ、としりぞけるかもしれない。
だが、その信仰を盤石に形成している宗教、とりわけ仏教が「因果論」を重んじていることは自明である。
その「因果論」が近代以降の科学的思考を支配していることもまた有名であり、H.G.ウェルズの「タイム・マシン」(1895)やその映画化(1960および2002)においても、ある種の「因果の鎖」を解くために〜ここで「偶然性と自由」の問題が開陳されることになる〜タイムマシンという過去と未来という因果論的に形成された世界に向かって旅立つというドラマになっている(主人公の「旅立ち」だけが自由意志による偶然の動機なのかもしれない)。

サイモン・ウェルズ監督、2002

科学から「因果性」を除去することはできない。医学においてもEBM(Evidence-Based Medicine)が重視されて久しい。もっとも、これは「根拠に基づく医療」とは言っても、人間のおこなう医療行為ゆえに、少なくとも医療者が「共有」できて、その行為の正当性が保証されるようなもの、といった意味合いをももっているので、じつのところ、それほど「科学的」であるとは思えない。
(本木雅弘と上白石萌音によるCM「サントリー緑茶 特茶 伊右衛門」でもエビデンスということばを前面に押し出して、「数値化された効果」を宣伝文句としている)

https://www.youtube.com/watch?v=KGC7ZPYi3Yw&list=PLD2jk-X1C1zoVLkow_WJtdN2YUgSucdel&index=1

「結果オーライ」と言うが、人生においてはたいていこのような素朴因果論がハバをきかせているのである。あるいは逆に「親の因果が子に報い…」といった浪曲的あるいは歌舞伎的ストーリーを是認せざるをえない世界観のなかで生きているのである。
原因があるから結果がある。
それ自身必然的とも思えるその「思想」が、ぼくたちの日々を支配しているのだろう。
たとえば、いまでもぼくを苦しめている「吐き気(悪心)」というもの、ぼくの場合は小脳出血が「原因」だが、通常は消化管由来の場合が多いだろう。

くにちか内科のウェブサイトより

じつのところ、嘔吐の「原因」は完全に解明されたわけではないけれど、ぼくは不思議な「発見」をした。
たしかに吐き気は激しいときもまだある。
しかし、それはおそらく延髄の嘔吐中枢で「知覚されている」感覚であって、消化管から来るものとはちがっている。
だから、突然吐くことは入院していた時はしばしばあったけれども(ものすごい咳込みとともに嘔吐していた、咳中枢も近くにあるからね)、それ以外のときは「吐き気をもった身体」でしかなく、その状態で食事もトイレもなんなくこなすことができた。
それは「胃の状態」が悪かったのではなく、大脳が「つくりだした」悪心であったからだと思っている。
起き上がれないくらいひどい吐き気があったときも、大好きなキーマーカレーが出されると(カレーは月に一回くらい…)バクバクと喰ってしまった(笑)。
だから、「吐き気(悪心)」は「嘔吐」の原因(前駆状態)とはなっていなかったのだ、ぼくの場合は…。
だから、そんな「因果の軛(くびき)」を逸脱して、突然嘔吐してしまうことがあり、そのたびに九鬼周造の『偶然性の問題』を想起してしまうのだ。
もっとも、こうした「悪心のメカニズム」は因果の連鎖が永遠に続いてしまうので、本当の、究極の「原因」は、自分が「生きている」ことに帰結してしまうので、存在論と因果論はすんでのところで相性がいいのかもしれない。

偶然性とは必然性の否定である。必然とは必ず然か有ることを意味している。すなわち、存在が何らかの意味で自己のうちに根拠を有っていることである。偶然とは偶々然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。すなわち、否定を含んだ存在、無いことのできる存在である。換言すれば、偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無との接触面に介在する極限的存在である。有が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である。偶然性にあって、存在は無に直面している。しかるに、存在を超えて無に行くことが、形を越えて形而上のものに行くことが、形而上学の核心的意味である。形而上学は「真の存在」を問題としているに相違ない。しかし「真の存在」は「非存在」との関係においてのみ原本的に問題を形成するのである。

『偶然性の問題』序説

存在論の彼方へ、あるいは存在と非存在とのあいだに、偶然性は潜んでいる。
ヨーロッパにおける初期の大学には、神学部・法学部・医学部の三つが創設され、まさに最初からアカデミズムにおいて「因果論を学ぶ領野」が選ばれているわけだ。神の意志、法的根拠(殺意など)、そして病因…。仏教における因果論であれば、人間存在のありかたまで追求されるだろうが、殺意を持った人間が存在することが「悪」であるとか、それは人的価値の問題になるが、法学において人間の存在まで云々すれば、そもそも法律そのものが曖昧なものになってしまうだろう。だから、人は、コロナ(covid-19)が原因である感染症を、それを作った人間たちがいるのではないか、とさらなる「原因」を追求するのではないか。
人はどこまでも「因果の軛」から逃れることはできないのだろう。

偶然性の問題は、無に対する問と離すことができないという意味で、厳密に形而上学の問題である。また従って、形而上学としての哲学以外の学問は偶然性ということを本来の意味において問題としない。数学に所属する確率論が偶然性を自己の問題としていると考えられるかもしれない。確率論は偶然の場合を取扱っているに相違ない。しかし確率論の意図は偶然を偶然として偶然性において摑もうとするのではない。偶然性の意味それ自身をそれ自身において闡明しようとするのではない。確率論の関心は、一事象の生起および不生起のすべての可能的な場合と、その事象の生起する偶然的な場合との間に存する数量的関係ということに尽きている。

仝書

「確率論の意図は偶然を偶然として偶然性において摑もうとするのではない」と九鬼が指摘するのは、そもそも確率論の方法について言及しているということになる。それはハイデガーが述べていたように、人間は必ず死ぬ、だが、それがいつかはわからない、その意味で人間は「生きている限り」死の可能性において生きている、いや生かされている、ということになるだろう。

死のうちへの被投性が現存在に、いっそう根源的に、また一層切実に露呈するのは不安という情状性においてなのである。
(…)
死は、おのれに固有な現存在に無差別にただ「属している」のではなく、むしろ死は、現存在を単独の現存在として要求する。先駆において了解された死の没交渉性は、現存在を現存在自身へと単独化するのである。

『存在と時間』

ハイデガーは九鬼周造や和辻哲郎とはちがって、人の死を「単独の現存在」と把握している。人はたった一人で死んでゆく、それは必然だ。その寂しさ、厳しさを受け入れることが、アメリカ的な〜キューブラ・ロス的な〜「死の受容」ということになるのだろう。日本人からすると、これはあまりにも虚しいかもしれない、侘しいだろう。人は死ぬ、しかも一人で。そんなことはわかっているが、少なくとも、その死の瞬間までは誰かに寄り添ってもらいたいだろう。その人は死ぬわけではない、だから自分の向かう世界の同行者にはなれない。だが、その寸前まで誰かにいてもらえれば…。それはいたってロマンティックな死生観かもしれない。だが、ハイデガーのような「個人の死」だけが死ではないだろう、と思う(これについても、いずれは言及する)。
偶然性の問題が死の問題になってしまった(それは当然といえば当然なのであるが、ひとまず偶然と思って処理しよう)。

運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は垢抜がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟酒たる心持でなくてはならぬ。(…)要するに「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界」にその起源をもっている。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否み得ない事実性を示している。

『「いき」の構造』

と九鬼周造はいっているが、こうした思考の先には心中=情死があることは想像できる。これはこれで特殊といえるが。
(ちなみに「苦界」を「くがい」と読めない人間は、この書物を繙く資格はないと思っている)
脱線のような本線のような記述はまだまだ続く。

九鬼周造の『「いき」の構造』や『偶然性の問題』の漢訳

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