偶然性、しばらくは九鬼周造先生を…。
偶然性とは必然性の否定である。必然とは必ず然か有ることを意味している。すなわち、存在が何らかの意味で自己のうちに根拠を有っていることである。偶然とは偶々然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。すなわち、否定を含んだ存在、無いことのできる存在である。換言すれば、偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無との接触面に介在する極限的存在である。有が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である。.

偶然には根拠がない。これは自明だろう。
だが、必然には本当に根拠があるだろうか、と思う。
あるいは、根拠に値する必然なるものは存在するのかとも思うのである。
そもそも、「必然」とは「根拠」の別名だという認識が、九鬼にはあるのかもしれない。
「偶然とは偶々然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである」。
必然は、必ず然か有るの意味ということになる。それが「必ず」であるという根拠を持っていることが、必然が必然たる所以なのである。
たとえば、人は死ぬ、これは必然だ、100%の確率。
そこに「根拠」はあるのか、あるいは「根拠」は必要なのか???
あるだろう、それは「人は人である」という根拠だ。
人は生き物だ、人は有機物だ、だから滅びる、朽ちる、そして死ぬ。
「人はなぜ死ぬのか」という永遠の問いに関しては、哲学が答えることはむずかしいだろう。
その問いに答えることは「人の営為=哲学は死ぬ」、つまり哲学には終焉があることを認めなければならないからだ。
まあ、哲学は一人の人間だけが営むものではないのだから、そんなに拘泥る必要もないのかもしれない。
だが、九鬼周造にとっては、最初から哲学の世界ではもっとも困難な問題に立ち入っているということになるだろう。
九鬼のポイントは、偶然と必然の問題を、存在の有無とつなげたところにある。
偶然性にあって、存在は無に直面している。しかるに、存在を超えて無に行くことが、形を越えて形而上のものに行くことが、形而上学の核心的意味である。形而上学は「真の存在」を問題としているに相違ない。しかし「真の存在」は「非存在」との関係においてのみ原本的に問題を形成するのである。形而上学の問題とする存在は、非存在すなわち無に包まれた存在である。そうして形而上学すなわち勝義における哲学と他の学問との相違もまさにこの点に存している。他の学問は存在もしくは有の断片を、与えられた存在および有の断片として問題とするだけで、
だけで、無については、また有と無との関係については、何ものをも知ろうとしない。
こうして一行ずつ見つめていくことを続けていきたいとも思うが、それではいつ終わるかわからないので…(汗)。
九鬼周造にとって、「偶然性の問題」を形而上学の問題にすることは必要だった。
それは前述したように、偶然-必然を存在の有無に関連づけたかったからだ。
存在の問題とはすなわち形而上学の問題である。
「しかし」と九鬼先生は言う。
形而上学は「形」を超えたものについての思考法であり、それはいわば「非存在」の学問である。
形而上学以外の学問〜形而下学〜はといえば、「存在」しか相手にしない、相手にならない。
形而下学の真骨頂である物理学は、いまは「非存在」と考えられているものを、「存在」の光の下に置こうとする、それによって、物理学が形而上学にならないようにする。
物理学が物理哲学や物理思想にならないように自衛しなければならない、それが物理学の存在理由である。
ぼくは湯川秀樹という物理学者が大好きなのだが、それはもちろん彼の中間子理論に感動したからではなく、その文章が好きなのだ(とくに『目に見えないもの』とか)。
ただ、小学校の時の教師に、この人は文章が下手だ、だって「人間の頭脳の機能の一部の…」って、「の」ばかりじゃないか、と言われて、それがずっとぼくの頭の中に残っている。たしかに、それ以来、同じ助詞を重複して使うことはやめようと決心したものだが、湯川はすぐれたエッセイストでもあり、十分に形而上を論んじることのできる賢者であった。

九鬼周造は「偶然性にあって、存在は無に直面している」とは言っており、「非存在に近づく」とは述べていない。偶然性について考えることは「無」についての討究であって、それは「非」ではないということになる。
それは無論、有あっての無であり、無あっての有ということになる。
そこに仏教的な「無」をもちこむことも可能であろうし、古代ギリシア哲学における「万物は無より生じる」というイオニア学派たちの考えをしのばせることもできるだろう。
九鬼はどちらかといえば、西洋哲学における無の検討から偶然性を論じることを考えている。
たとえば、ChatGPT先生に訊いてみても、次のような模範回答が返ってくる。
九鬼の『偶然性の問題』において語られる「因果」とは基本的に西洋的因果論に準拠しています(例:ライプニッツ、ヒューム)。
しかし、彼が重視する偶然の裂け目、無意味への様式的応答という構えは、実は縁起的世界観に近づく契機を含んでいます。
たとえば:偶然に意味を与える=「関係の網」のなかで生きる構え
存在の無根拠性への応答=空における様式的応答
九鬼周造自身は「偶然性とは、われわれの思考の合理的因果律の中に秩序立てられぬもの、つまり予想されざるもの、理解されざるものである。」と語っており、いわば存在の「裂け目」に不断に入りこむ「意味なき出来事」が偶然であるというのである。
だが、偶然だから意味がないのか、意味がないから偶然なのか、その順番は判然としない(九鬼先生はあらかじめ「意味なき出来事」があって、それが秩序ある体系=存在に介入してくる状態を想像されているようである)。
そこで、唐突だが(これも偶然w)、井上陽水の「東へ西へ」(1972)である。
中学生の頃、やっと買ってもらったモーリスのギターで何度この曲を弾き歌ったことか!!
あまりになつかしくて涙の出る曲であるが、いまでも「不思議な曲」だと思っている。
歌詞はこんな感じだ。

およそ九鬼的因果論、九鬼的偶然性を逸脱し、暴発しまくった曲ではないか。
「昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういう訳だ」
いきなり最初からその因果の謎に触れている。
昼寝とすることと夜中に眠れないことは、あまり、関係がない。
だが、昼寝をすれば夜中に眠れない、のである。なぜ???
そして「満月 空に満月 明日はいとしいあの娘に逢える」、ここは因果論とは無縁だ、情景が描写され、彼女と会える嬉しさゆえに満月であるかのようだ。
昼寝をしてしまったので、夜中に眠れなくなったのだろう、その「因果関係」を彼は信じている。
そんな「睡眠不足」を断ち切る母親の声のように目覚まし時計ががなり立てる。
だ〜か〜ら「ガンバレ みんなガンバレ 月は流れて東へ西へ」。
その睡眠不足を乗り越えるべく、ガンバらなければいけない、しかも自分だけではない、「みんな」にエール(?)を送っているのだ。
そんな主人公の意志とは関係なく、満月は東へ西へと流れている、どっち???
2番は会社か学校へ通うのだろう、その混雑具合が(たぶん当時の電車のラッシュは文字通り殺人的で、駅には「押し屋」がいたほどだから…)描写される。
「お情無用のお祭り電車に呼吸も止められ身動き出来ずに 夢見る旅路へ だから」
彼は会社や学校ではなく、彼女の待つ「花見の駅」に向かうために急いでいる。
床に倒れて笑う老婆、そしてお祭り電車、でも自分は愛しいあの娘に会いに行くのだ。
ラッシュのもつ殺人性ないし狂気に耐えて、自分は愛しいあの娘い会いに行こう。それを止める者は誰もいない、電車の中はラッシュというお祭りにみんな熱中しているからだ。
そしてようやく駅に着く。
「満開花は満開 君はうれしさあまって気がふれる」
満開の桜の木の下では人は気が触れてしまう、これはある種「必然」である。
床に倒れた老婆が笑うと対句になるように気がふれてしまった彼女に対して何もできない自分。
しかし「空ではカラスも敗けないくらいによろこんでいるよ」と意外に冷静に周囲を感じている。
「だから」ガンバらなければいけないのだ、何を、なぜ???
満月同様、黒いカラスも東へ西へとけたたましく鳴きながら飛んでゆく、「月に雁」ではなく「月にカラス」である。満月の黄色ぽい色合いと黒いカラスのコントラスト。
この曲はあらゆるところで因果が破綻し、すべてが偶然に満ちていて、でも何もかもが自分ではどうしようもないくらい「決められている」。
この曲の「君はうれしさあまって気がふれる」というフレーズを聴くと、ぼくはこの曲がリリースされた2年後に藤田敏八によって映画となった「赤ちょうちん」を思い出さずにはいられない。若い二人の同棲の物語なのだが、「トリデンカン(鶏癲癇)」である彼女が次第に精神を病んでゆくところがあまりに切ない映画であり、これははっきりと「運命」とか「宿命」とかの蔭が暗く二人にのしかかっている。
https://www.youtube.com/watch?v=r2oBXUZLYxU&t=105s

まあ、幸枝を演じた秋吉久美子に誰もがハマったはずで、それは偶然ではなかったはずだ(笑)。
それにしても陽水の「東へ西へ」は、曲タイトルからして錯綜していて、それが主人公の精神をも彷徨させているのだろうと思う。
だから、この曲を因果論や偶然性で読解するのは、はなから無理なことなのである。東か西か、どちらかにするのが決定論(因果論)であり、東も西も、とあらゆる方向性(可能性)を重んずるのが偶然性なのである。
だから、「東へ西へ」の主人公は、因果にも偶然にも与することのできない若者の苦悩を歌ったもの、と言えるのではないか。
だから、映画のキャッチコピーにも「君が、あなたが、現代の精神をさまよう……」と書かれているではないか。
これはもちろん、因果の軛からも離れ、偶然の悲劇からも逃れることで、誰にでもある世俗の悲劇として映画的に描いている(火葬場の近くに引越したときの二人の描写は珠玉である)のであろう。
ぼくはまだ高校生だったから、こうした生き方に対して憧憬しか抱かなかったけれども。
