【追記有り】目眩ましという脱臭効果 ――「マニフェスト」という言葉の盲点
アメリカの西部開拓時代を美化して描いた「西部劇(ウェスタン)」。その勧善懲悪のスクリーンの裏側には、常に一つの強烈な思想的ドグマが流れていた。「マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)」――日本語で「明白な天命」と訳されるこの言葉は、白人キリスト教徒による西進と領土拡大、迅速な先住民の虐殺や土地の奪取を、「神から与えられた聖なる権利」として正当化するためのスローガンであった。それは自分たちの価値観こそが絶対正義であり、それに従うことこそが文明化であるという、極めて強固な自己正当化の宣言(Manifest)に他ならない。この思想は西部開拓に留まらず、後年のベトナム戦争やイラク戦争において、アメリカが「民主主義の輸出」を掲げて対外外交を展開する際の、精神的な根底として機能し続けてきた。
しかし、この「Manifest」という言葉を聞いて、現代の日本人が脳裏に浮かべるイメージは全く異なる。私たちが思い浮かべるのは、泥にまみれたフロンティアの銃撃戦でも、大国の激動の歴史でもない。スーツを着た政治家たちが掲げる、クリーンで、近代的で、どこか洗練された「選挙の政権公約」である。
ここに、日本の外来語受容における、きわめて鮮やかな「概念の転換」の縮図がある。
2000年代初頭、政治やメディア、知識人たちの手によって、この言葉は「マニフェスト選挙」という新しい流行語として日本社会に定着した。当時、この言葉を導入した人々が拠り所にしたのは、アメリカの領土拡張論ではなく、イギリスの労働党などが用いた「政党の公式宣言(Manifesto)」という欧州の先進的な政治慣行の文脈であった。うそ偽りのない、数値と財源を明記した「国民との契約書」――そのクリーンでポジティブなイメージだけが強調され、私たちの社会に深く根付いていったのである。
結果として、この言葉のロンダリング(洗浄)とも言えるプロセスは、一つの興味深い現象を生み出すことになった。
日本人の脳内において、「マニフェスト」という言葉は「近代的な政策論争」というポジティブな箱に完全に固定され、19世紀のアメリカ開拓史や、その後の介入主義的な外交思想といった「本来の重い歴史的文脈」への連想ルートが綺麗に遮断される構造が完成したのである。言葉がカタカナとして翻訳され、新しい定義を与えられることで、元々その単語が持っていた生々しい血の臭いや、独善性といった不都合な側面が綺麗に脱臭・サニタイズされたのだ。
外来語をカタカナへと翻訳するプロセスは、時に、不都合な歴史の記憶から人々の目を逸らさせる**※※※目眩まし※※※**として機能する。
これは、特定の誰かが悪意を持って仕掛けた陰謀というよりも、外来語を都合よく消費する中で起きた「幸福な忘却」であり、高度な情報コントロールの縮図でもある。本来であれば、かつて自国を開国させ、占領し、戦後も強い影響下に置き続ける大国の精神の根幹にある「Manifest」という響きに、私たちはもっと批評的な眼差しを向けるべきだったのかもしれない。しかし、洗練された新語としてのインパクトが最優先された結果、その言葉の本質に潜む欺瞞や、日本にとって皮肉な意味合いは綺麗にスルーされることとなった。
「マニフェスト」という定着した和製英語は、言葉の響き一つで人々の歴史的認知がいかに容易に書き換えられ、思考のルートが制限されてしまうかを示す、実に鮮やかで深い示唆に富んだ実例なのである。
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後に追記:
目眩まし……の他の例として
『アイデンティティ』という言葉も
これに限りなく近いかも、と思った。
辞書でだと
同一性とか載っていたような記憶が。
学生時代
アイデンティティと聞いて
ピンと来ないから
辞書に尋ねると
意味は、同一性です、と。
余計、煙に巻かれる思いだった。
意味的に100%イコール
ではないから
文脈にもよるのだが
時と場合によっては
『帰属意識』と訳した方が
しっくりとくる場面も
実際、過去にはあった。
個人的にですが
同一性
と言われても
頭上に
ハテナが三つくらい並ぶだけ(*_*)
