ウィトゲンシュタインの『論考』のこと――命題と命題もどきの一例
最近のXのポストは何の話だったのかっていうのを、もうちょっと伝わるように書いてみたいなって思います。
4月の100分de名著でウィトゲンシュタインをやると知ったときに、Xのポストで「ウィトゲンシュタインやるから観て!」って、べつに自分が作った番組でもないのに宣伝したわけですけど、その結果、ふたりの方から、「観たよ」ないし「テキスト買って読んだよ」と言ってもらえたのでした。めちゃ嬉しい。
それで、その番組やそのテキストの中で、『論考』の解説として、「命題」とは何なのか、っていうことが説明されていて、そのこととともに「命題」ではないものはどういうものか、ということも説明されていて、それで「命題」ではないもののことは「命題もどき」と呼ばれていたんでした。
壁に絵が掛かっている。
というのは、命題と言っていいんだろうと思うんです。
命題には多分ポイントが二つあって、一つはそれが像として示せるかどうかということで、もう一つは真か偽が問えるっていうこと。
壁に絵が掛かっている。
というのは、像として示せます。模型を作って示せるし、絵を描いも示せる。像に写せる。ということで、ウィトゲンシュタインの『論考』の頃の言語観は「写像理論」だなんて言われます。
模型って作るのが大変です。絵も描くのが苦手だっていう人もいます。頑張って描いても、壁に絵が掛かっているように見えない、という絵しか描けないかもしれない。
そこで人はどうするか。言葉で示すんですね。
壁に絵が掛かっている、という状況を説明するにあたって、「壁に絵が掛かっている。」と発話したり書いたりします。
つまり、模型や絵だけでなく、言葉もまた像だっていうわけです。
壁に絵が掛かっている。
これは命題だろうと思われるわけです。実際に壁に絵が掛かっていたとしたら、それを正しく写しているように見えるから。
命題のもう一つの特徴は、真か偽が問えるっていうことじゃないか、って僕は書いたんでした。
さて、壁に絵が掛かってないのに「壁に絵が掛かっている。」って発話されたとします。
「えっ? 掛かってないけど?」
つまり、壁に絵が掛かってないところでは「壁に絵が掛かっている。」という命題は「偽」ということになります。実際壁に絵が掛かっていたら「真」です。
真か偽が問えるっていうのは、そういうことです。
さてそれから、その壁に掛かっている絵について、誰かが次のように発話したとします。
「この絵は美しい。」
この絵は美しい。
さて、これは命題なんでしょうか?
「この絵は美しい」ということって、どうやって写像したらいいんでしょう。
もう一つ、「この絵は美しい」ということについて、真か偽を問うことってできるんでしょうか?
ここは本当はゆっくり考えるべきところなんですけど、『論考』での結論は、「この絵は美しい。」は命題じゃないんだって話になるはずです。だからこれは「命題もどき」ということになります。
「この絵は美しい。」くらいの、一見すると自明なことを言っているように見える文が、『論考』では命題に入れてもらえない。
その文は何も写像できてないし、真か偽も問えないから。
ところで、哲学が難しいのは何を言っているのかもしばしば難しいけど、それ以前に、そもそも何のためにこの話がされているのかが分からない、というところにもあると思うんです。
どんな文が命題でどんな文が命題もどきだって分かったからといって、それが何なの?!
ここが分からないと、何が言われているかはギリ分かったとしても、「だから何なの!?」ということになっちゃう。
ということで、命題と命題もどきを峻別するのがどうして大事なことなのか、ということについて、次のときには考えてみます。
続けるので読んでね。
