「ブラーフマンよりも高次の実在が存在するという異論者の反論をヴェーダーンタ学派が論破する」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(3.2.32)
はじめに
「堤防」と「真我」の類似性について、以前より「はじめに」にて言及している「知覚」の【全体】と【部分】になぞらえて考えてみると
「真我」は【全体】であり、制限された付属物によって私たちのほとんどは世界を【部分】を多様なる現象界として「知覚」しているとするならば
「真我」が種々の世界に区切りをつける「堤防」として【全体】を保持している。
したがって、「堤防」と「真我」は、その類似性に基づいて聖典は記述しているのであり、ブラーフマンより高次の実在を示しているのではない、と言えるのだろう。
ちなみに、今回の画像は、群盲象を評す(群盲評象)となり、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話です。 数人の盲人が象に触れ、それぞれが異なる部位(鼻、牙、耳、足、腹、尻尾など)を触ります。触った部位によって「ホースのようだ」「ヤリのようだ」「ウチワのようだ」「樹木のようだ」「壁のようだ」「ロープのようだ」と感想が異なり、それぞれが自分の意見が正しいと主張して対立が深まります。しかし、最終的にはそれが同じ象の異なる部分であることに気づき、対立が解消されるという話となります。
インドにおいては、この「象」と「ブラーフマン」の類似性を喩える論説もあります。「盲人」と「無智さによって制限された付属物に惑わされた人」の類似性として喩えられているのでしょう。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第三篇第二章三十二節
〈英語版〉
32節 しかし(真我は堤防として言及されていること)は類似性に基づいている。
〈湯田豊版〉
32節 しかし、等しいゆえに、[ブラフマンは土手などとして示される]。
「しかし」という言葉によって、格言の作者は、異論者により示された結論を否定する。ブラーフマンと異なったもの、つまり、独立したものは、何も無い。なぜならば、それを証明する認識手段が無いからであり、ブラーフマン以外のものに対する認識手段をまったく知覚し得ないからである。また、起源を有するすべてのものの誕生や存続および没入(BS.Ⅰ.ⅰ.2)はブラーフマンから生じることが確定しているからである。そして、結果が原因と異ならないこともまた確定している。そして、ブラーフマンから独立して生まれるという何かは存在し得ない。なぜならば、聖典において、次のように、「愛児よ、これ(宇宙)は太初において存在しているもののみであった。それこそ唯一の存在で、第二のものはなかった」(Ch.VI.ii.1)のように、確定されているからである。また、一つのもの認識によって一切が認識されるとの約束(Ch.VI.i.3)(Br.ⅠⅠ.ⅰⅴ.5)(Mu.Ⅰ.ⅰ.3)ゆえに、ブラーフマンと異なったもの、つまり、独立して存在するものはあり得ないのである。
【反論】「堤防」などの言葉は、ブラーフマンとは異なる実在であることを示唆すると、私たちは指摘したではないか?
【答え】そうではないと、私たちヴェーダーンタ学派は答える。「堤防」への言及については、ブラーフマンの外に何かが実在することを証明することができないのである。なぜならば、聖典*は、「真我は堤防である」と述べているだけで、堤防を超えた何か他のものが実在するとは述べてはいないからです。
*湯田豊注:このような文句は、初期のウパニシャッドに見い出されない。『ムンダカ・ウパニシャッド』2.2.5に、「これは不死に至る土手である」という文句が見い出される。これによって意味されるのは[唯一の]“自己”。
【反論】その際に、ブラーフマンより高次の実在が存在しないのならば、「堤防」という概念が生じることはない。したがって、ブラーフマンより高次の実在が存在することこそ想定されるのだろう。
【答え】これもまた正しくはない。なぜならば、よく知られていない未知の何かを想定することは歪曲そのものだと言えるからです。さらにまた、真我が堤防である呼ばれていることは、世間に知られる堤防との類推に基づき、この堤防以外の何かを想定できるのならば、真我の構成要素として土や木材などから成るものとして想定しまうことになる。そして、これは正しくはない。なぜならば、真我は生まれ得ないとの聖典の記述に矛盾するからである。しかし、堤防という言葉が真我に関して用いられるのは、堤防と真我との類似性に基づき、その類似点とは、真我が世界を統治し、そして、世界との境界を引き離す堤であることにある。(Br.ⅠⅤ.ⅰⅴ.22)したがって、ここで論じられている真我とは、堤防のようなものだと称賛され、「この堤防を越えたとき」(Ch.VIII.iv.2)という表現については、文字通りの「渡る(Tarati)」という動詞を「越えて行く(atikrama)」という意味に理解することは不可能であり、まさに、「到達する(prapnoti)」という意味にて用いられるのである。たとえば、「彼は文法を越えた」という表現は、「彼は文法を越えて行った」というのではなく、「彼は文法に到達した」もしくは「彼は文法を習得した」と言われるようなものである。
最後に
今回の第三篇第二章三十二節に引用されている『ブラフマ・スートラ』と『チャーンドギャ・ウパニシャッド』、『プラシュナ・ウパニシャッド』、『タイッテリーヤ・ウパニシャッド』、『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
そこからここ(宇宙)の誕生などが、(生じてきたのが)ブラーフマンである。
父ウッダールカ・アールニー「愛児よ、これ(宇宙)は太初において有(うsat)のみであった。それこそ唯一の存在で、第二のものはなかった。ところが、ある人々は“太初においては、これは無(asat)のみであった。それこそ唯一の存在で、第二のものはなかった。この無から有は生じた”という。
4節ウッダールカ=アールニー「愛児よ、一個の土塊によって土から成る一切のものが認識されるように…」
5節「愛児よ、一個の銅製の装身具によって一切の銅製品が認識されるように…」
6節「愛児よ、一個の爪切挟によって一切の鉄製品が認識されるように…」
彼は言った。「愛しい人よ、夫が愛されるのは夫のためではなく、自分自身のためです。愛しい人よ、妻が愛されるのは妻のためではなく、自分自身のためです。愛しい人よ、息子たちが愛されるのは息子のためではなく、自分自身のためです。愛しい人よ、富のために愛されるのは富のためではなく、自分自身のためです。愛しい人よ、バラモンが愛されるのはバラモンのためではなく、自分自身のためです。愛しい人よ、クシャトリヤが愛されるのはクシャトリヤのためではなく、自分自身のためです。愛しい人よ、世界が愛されるのは世界のためではなく、自分自身のためです。」親愛なる者よ、神々が愛されるのは神々のためではなく、神々が愛されるのは自分自身のためなのです。親愛なる者よ、生きとし生けるものが愛されるのは神々のためではなく、神々が愛されるのは自分自身のためなのです。親愛なる者よ、万物が愛されるのは万物のためではなく、万物が愛されるのは自分自身のためなのです。親愛なるマイトレーヤよ、真我を悟るべきであり、真我について聞き、熟考し、瞑想すべきなのです。親愛なる者よ、聞くこと、熟考すること、瞑想することを通して真我を悟ることによって、これらすべてが分かるのです。
偉大なグリハスタであるサウナカは、アンギラスに近づいて、彼に尋ねました。「バガヴァンよ、知られるとすべてが知られるようになるとは何ですか?」
諸器官の中にあっての認識作用である真我は偉大にして不生の存在ですが、心臓内で光り輝いているのです。真我は万物を取り締まる者であり、万物の支配者であり、統治者です。善なる行為で善くもならず、悪行にて悪くもならないのです。万物の支配者であり、万生の統治者であり、保護者です。種々の世界に区切りをつける堤です。
一切の邪悪は、そこから引き返す。かのブラフマンの世界はあらゆる悪を絶滅しているからである。従って、この隔壁を越えるとき、盲目の者は盲目でなくなり、負傷した者は傷が癒え、病人は病人でなくなる。
今回の三十二節を要約すると
「堤防」などの言葉ゆえに、ブラーフマンより高次の実在が存在するはずであるとの異論者の反論として
「真我」と「堤防」との類似性として、「堤防」が水を堰き止めて水を支配しているのと同じように、「真我」も世界を統治し種々の世界に区切りをつける堤となっている意味であるので、ブラーフマンは唯一無二でありブラーフマンより高次の実在はあり得ないとし
「堤防」という概念から越えるべき何ものかが存在するかの表現ではあるのだが、この「越える」とは「到達する」という意味であり、「堤防」という別名の「真我」に「到達する」という意味にて「堤防」という言葉を用いているに過ぎない、というのがヴェーダーンタ学派の理解である。
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