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イクトゥス元型 〜魚、陰陽、ブッダ、そして桃太郎〜


ハリセンボンのイラスト
https://tsukatte.com/harisenbon/#google_vignette
本日のトップ画像は『ツカッテ』様からお借りしました。

 


1.キリスト=陰陽魚?

 サカナクションの記事を書くついでに、ユング心理学における『魚』の象徴性について調べている。ユングは、動物をそのまま元型として扱うのではなく、何かしらの元型が変化したものとして読み解く癖があったのだが、その中でも、魚は特別な地位を持っている。魚は、人間の意識を超えた『セルフ』の象徴だというのだ。キリスト教のイクトゥスや、中国の太極図は、その好例であるという。

 はるか古の時代、ほとんどのヨーロッパ人が多神教を信じていて、ローマ帝国は地中海の覇者だった頃……。キリスト教徒たちは迫害から逃れるために、秘密のシンボルを使用した。それがイクトゥス(ΙΧΘΥΣ)、すなわち魚の絵である。イクトゥスといつ言葉は、ギリシャ語でを意味すると同時に、『イエス、キリスト、神の子、救世主』の頭文字をギリシャ語で並べたものでもある。

 ユングは、新約聖書におけるキリストを『セルフの象徴』、すなわち、心の中心でありながら全体でもある特別な概念の象徴として読み解いた。したがって、キリストの象徴である魚も、セルフの象徴として読解できるわけだ。また、ユングの理論において、エゴ(自我)は意識的な部分だが、セルフは無意識を含む。魚は、水中という無意識の領域から、水面という意識的な領域に上がってくる動物だから、そういう意味でもセルフの象徴にふさわしいというわけだ。


フリーハンドで書いた太極図と、魚の絵

 太極図は、「陰と陽が表裏一体で、陰の中に陽があり、陽の中に陰がある」という哲学的なシンボルだが、実はこれを陰陽魚(いんようぎょ)とも言う。白と黒の部分が魚に見えるからだ。ユングは、これを西洋のイクトゥスと同じようなものとして考えた。ただし、中国の陰陽説においては、キリストという『陽』が強まれば、それはいつか限界に達し、その反対の『陰』がだんだんと強まってくる。これをユング心理学ではエナンティオドロミア(対立物の転換)と呼ぶらしい。ユングは「キリスト教が白い魚であるなら、黒い魚にあたるものとして、近代主義的な要素があるはずだ」と考えた。つまり、キリスト教の流行後に、科学技術や新しい思想が発達し、キリスト教の権威が弱まる、といった西洋の歴史にも、実は陰陽のメカニズムが働いていたというのだ。

 さて、筆者はこうした小難しい話を、AIとWikipediaで勉強していたのだが(※本当はユングの著作を読むべきだけど、しょせん素人だし、無料の記事しか書いてないので、今は許してほしい)、その結果、こう思った。

「なるほど、ゾーイ・トッドも同じか!」

2.ゾーイ・トッドの思想 〜魚と人間は親戚〜

 筆者は以前、欧米のエコロジー思想について調べていた時に、ゾーイ・トッドという学者を知った。彼女は北米先住民と白人の混血であり、「白人による再発明より、先住民の知恵に基づくエコロジーこそが大事だ」みたいなことを言っている。そんな彼女の思想の思想をまとめると、こうなる。

 「西洋的な『人か、モノか』という二元論は間違いだ。魚は資源ではなく、人間の親族(kin)であり、法的主体であり、感覚を持つ存在である。また、魚と人の関係は多様なものであり、これを魚の複数性(Fish pluralities)と言う」

 実を言うと筆者は、「魚はセルフの象徴である」というユングの説より先に、ゾーイ・トッドの思想を知っていた。ゾーイの思想については「なぜ魚なんだ?魚以外じゃダメなのか?」と思ったが、ユング心理学のおかげで、「むしろ魚であることが重要なのか」と思った。

・昔のキリスト教徒は、イクトゥス(魚)を聖なる象徴として尊ぶ
・昔の中国人(特に道教を信じる人)は、世界のメカニズムを陰陽魚(白と黒の魚)というシンボルで表す
・北米先住民の中には、魚と人間を対等のものとして考える文化が存在した(それを現代の思想に昇華したのがゾーイ・トッド)

 このように、色んな文化で魚のシンボルが特別な意味を持っていることは、心理学的には興味深い題材だと思う。

3.イクトゥス元型をつくろう

 さて、筆者は今、サカナクションに関する記事を書いているので、『魚=キリスト=セルフ』という図式に触れないわけにはいかない。しかし、『サカナクション=魚』という図式をそこに加えてしまうと、『サカナクション=キリスト』という、明らかにヤバい人の主張になってしまうので、表現工夫する必要があった。それで考えてみた結果、「キリスト教は欧米の文化だが、魚をシンボル化するのは人類共通の文化だ」ということを思い出した。

 それで筆者は、『セルフの象徴、世界や人間の象徴、人間の親族としての魚』といった象徴の根源を、イクトゥス元型という言葉でまとめることにしたわけだ。

 これで『サカナクション=魚=イクトゥス元型』という、より穏当な表現ができるようになった。


4.聖杯伝説

 さて、こうしたイクトゥス元型の現れは他にもあるのだろうか。ユングの妻であるエンマ氏は、アーサー王伝説の一部である『聖杯伝説』について研究していた。有名なので某ゲームの元ネタにもなったやつである。聖杯伝説はキリスト教に基づくものだが、その源流にはケルト系の古い文化もあるし、中世の新しい文化(騎士道とか、宮廷愛とか)が組み合わさっているので、キリスト教の主流とは別のものとして考えることもできるだろう。

 さて、エンマ曰く、聖杯伝説は『セルフを統合する物語』だそうで、聖杯はセルフの象徴なのだという。

 だとすると、『聖杯』はイクトゥス元型に関連するはずだが、聖杯伝説に魚は出てくるのか。なんと、出てくる。厳密にいえば、「魚を取る人」が。

 聖杯伝説には、漁夫王(いさなとりのおう、フィッシャーキング)という人が出てくる。彼はケガ人で、太もも(あるいは股間)を損傷していて、そのキズが治らないまま、川の魚を獲って生計を立てている。彼は一国の主でありながら、その土地は荒れ果ててしまっている。彼の国が回復するためには、彼のキズが癒される必要があり、そのためには『聖杯』が必要なのだ。

 というわけで、魚がメインの話ではないが、印象的なモチーフの一つにはなっていると思う。少なくとも、重要人物の名前になる程度には。

5.ジャイナ教の伝承 〜無我か、セルフか〜

 さて、次はジャイナ教の伝承を紹介する。実はジャイナ教には「ブッダはもともとジャイナ教徒だったのだ」という説があり、歴史的な事実かどうかはともかく、心理学的には非常に興味深い。

 8世紀、ジャイナ教の裸形派(ディガンバラ派)のデヴァセーナーチャーリヤ(Devasenācārya)が『ダルシャナサーラ(Darśanasāra / दर्शनसार)』という本で書いたことらしいのだが…

・かつてブッダキールティという男がいた。彼はニガンタ派(いわゆるジャイナ教徒)の苦行者だった。
・彼らサラユー河のほとりで苦行に励んでいた際、死んだ魚が川を流れて、自分の座っている場所まで漂着するのを見た。
・彼はそこで、「魚を食べることは罪ではない」と考えた(※ジャイナ教では、動物を食べたらダメ)
・これが仏教の始まりであり、仏教の戒律が緩い理由である

 そう、ジャイナ教のライバルだった仏教と関連づける形で、死んだ魚食べ物としての魚という、イクトゥス的なシンボルが現れているのだ。

 一応言っておくと、ジャイナ教では『魚』は特別なシンボルではない。彼らは「微生物も含めて、あらゆる動植物に魂(ジーヴァ)が宿っている」と考えるし「生きるためであっても、生き物を殺すとカルマ物質が魂にくっついて、食べられる側の生き物に生まれ変わったり、地獄行きになってしまう」と思っている。つまり、彼らの世界観において、『セルフ元型』はあらゆる生物に投影されているはずだ。

 しかし興味深いのは、仏教が『無我』を語る宗教であるということだ。つまり、「セルフなんて存在しない」というのが仏教の考え方である。それに対し、「仏教の始まりには『死んだ魚』がある」という伝承を語ったのがジャイナ教。これを偶然と見ることもできるだろうが、筆者は「イクトゥス元型の現れだ」と解釈する。

 余談だが、ゾーイ・トッドの言う「人か、モノかという区別は間違い」「魚にも感覚がある」「魚は人間の親族だ」「魚と人間の関係は多様なものである」といった理論は、ジャイナ教の哲学との相性が非常にいい。逆に、仏教哲学においては、「まあでも、ネイティブアメリカンの文化にこだわるのも執着だよね」とか「魚にも人間にも感覚はあるけど、それってマボロシなんだよね」とか、そういう方向性になってしまうので、相性が悪い。

 筆者が思うに、最近の世界は、マインドフルネスだとか、禅だとか、仏教哲学だとか、そういうのが流行りまくって、『陽の極み』に達しつつある。だとすると、次の時代は『陰の要素』が表に出てくるはずで、『仏教という白い魚』に対する『黒い魚』は、ジャイナ教だろう、と筆者は考えているわけだ。まあ、筆者はジャイナ教徒ではないので、筆者のやってることは『文化の盗用』かもしれず、微妙な立場ではあるが……。

6.日本におけるイクトゥス

 さて、最後に、日本人が大半であろうみなさんへのご褒美として、『日本におけるイクトゥス元型』について語ろうと思う。

 これが結構難しくて、最近のものなら、『魚関連で人気なもの』なんていっぱいある。スシとか、水族館とか、サカナクションとか、さかなクンさんとか。あと、上皇陛下も魚類研究者だったはず。

 では、古代のものならどうかというと、実はしっくりくるものがなく……。「トヨタマヒメは鮫の姿を持つ女神だが、魚というより、龍、およびグレートマザーではないか?」と思ったり、他の神話についても、「それは本当にセルフの象徴なのか?イクトゥス元型と関係あるのか?」と、思ってしまった。もちろん筆者は各分野の素人であり、読み込みが足りてない可能性がある。

 しかし、ちょっと発想を変えたら、うまくいった。

「魚と言えば、川を流れて、沈んだり浮かんだりするもの。それなら、一番有名なやつがあるじゃねえか!!」


モモの絵
2026/08/09


 そう、桃太郎である。桃太郎の昔話は、いつどのようにできたかハッキリしないそうだが、そこは脇に置いとく。

 筆者が言いたいのは、「日本におけるイクトゥス元型は、魚以外のものとして現れるのでは?」ということだ。そもそも、イクトゥスは魚だが、キリスト本人は魚ではないし、陰陽魚も、「シンボルの形が魚っぽい」というだけで、魚ではない。「魚ではないものがイクトゥスになるなら、イクトゥスがモモになったって良いだろう」と、筆者は思いついた。

 実際のところ、桃太郎が『セルフの象徴』と呼べるかどうかは分からない。『英雄の旅路はセルフを目指すもの』という理論もあるけど、それじゃ英雄元型はみんなセルフの象徴になっちゃうし。

 ただ、ゾーイ・トッドの思想を念頭に置くと、結構面白みがある。「桃の中に入っていた赤子」という、明らかに人間じゃないナニカを、我が子のように育てあげたおじいさんとおばあさん。あるいは、鬼を倒すために人間を雇うのではなく、イヌ・サル・キジという3匹の動物を仲間にするというチョイス。

 つまり、桃太郎の目標は『鬼退治』だが、その過程では、血のつながりを超えた、人間と動物と桃太郎の親族関係(kinship)が描かれている。その始まりが、『川を流れるモモ』というのは、いささか唐突だが、しかし、『イクトゥス元型のバリエーション』として見るなら、なかなか興味深いのではなかろうか。


p.s.
最近、「鬼滅の刃は知ってるけど桃太郎は知らない」みたいなガキンチョが増えてるらしいので、大人のみなさんは気をつけるように。特に子供のいる人は読み聞かせとかをした方が良いと思う。がんばってください。

おわり

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