大分巡礼
🛣️冬枯れ色に染まり始めた大分県北部へ師走の小旅行に出かけた。今回の目的地は八幡総本宮「宇佐神宮」、宿泊先の別府市「鉄輪温泉」、そして山岳修行の根本道場「両子寺」。いずれも初めての場所である。
北九州から最初の目的地「宇佐神宮」までは東九州自動車道を使って約1時間半。途中、左手に豊後水道に沿って広がる美しい田園風景、右手には耶馬渓の荒々しい山々を横目にひた走る。
高速道路を降り、宇佐の街に入った途端に空気が一変する。この街には古都のような、ゆったりとした大らかな時が流れていた。大分を巡ること、それは古来より息づく日本の精神風土を巡る旅であり、心のルーツを辿る巡礼の旅となる。
🛣️大分県宇佐市 八幡総本宮 宇佐神宮

左「一之御殿」中央「二之御殿」右「三之御殿」
🛣️宇佐神宮は、725年(神亀2年)創建の八幡社総本宮。宇佐の市街地から少し離れた丘陵地帯に鎮座している。境内は深い森に囲まれ、迷路のような参道が幾重にも分岐し、至る所に神殿や社が建立されている。
この神社には幾つかの特異性が見られる。「伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟」として朝廷から極めて篤い崇敬を受けていたこと。宗教史上最大の特異点「神仏習合」の発祥の地であること。また地元の宇佐氏だけではなく、秦氏や辛島氏など渡来系氏族が成立に深く関わっていたことなどが挙げられる。
しかし最も大きな謎とされているのが「主祭神」である。
神道には、山や磐座、巨木など自然崇拝を基盤とした「人神信仰」がある。天皇や豪族の長、或いは歴史上の偉人が死後、神の名を与えられたり、別名で崇められたり、また他の神と習合して祀られることが多い。
ところが宇佐神宮では主祭神「八幡大神=神格化された応神天皇」は本殿の中央ではなく、左側の小さな「一之御殿」に祀られ、右側の「三之御殿」には応神天皇の母「神功皇后」が祀られている。この二人は秦氏にとって渡来することを手助けした命の恩人である。
では、中央の大きな「二之御殿」に祀られている「比売大神」という女神はいったいどなた様なのだろうか。
宇佐神宮の由緒によれば、比売大神は「宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)=海の神(航海の神)」。
この三女神は宇佐神宮の奥宮である御許山に降臨し、古来より宇佐の地における地主神として信仰を集めていた。この地主神に敬意を払うという意味を込めて、大きな二之御殿に祀ることになる。
しかしこの経緯には更に深い意味が込められていた。




🛣️境内のほぼ中央に湧き出る霊泉「御霊水」と、その水が豊かに湛えられた霊池「菱形池」には、まるで天上界のような異次元世界が広がっている。
神々しい森、優雅に泳ぐ水鳥たち、神秘的な静寂と崇高なる神聖さ。宇佐神宮が建立される以前、ここは原初的な土着信仰の祈りの場だったのではないかと思う。
内宮本殿は、この御霊水から南へ約100メートルほど離れた丘の上に建立されている。地図で確認すると、本殿中央の大きな二之御殿は、この御霊水に向かう直線上に建てられている。つまりこの泉が宇佐神宮のルーツということになる。







🛣️伝説によれば、この御霊水に八幡大神(応神天皇の御神霊)が「金色の鷹」、或いは「鍛冶の翁」、また「3歳の童子」となって顕現されたと伝えられている。この3つの象徴の意味するところは次の通り。
金色の鷹: 土着の神=自然崇拝
鍛冶の翁: 秦氏や辛嶋氏など渡来人が持ち込んだ鍛冶技術
3歳の童子: 天皇家を祖先神として崇める皇室神道
これらは宇佐神宮建立の位置づけのようなものだろう。「地元の民衆」と「渡来人」、そし「ヤマト王権」という3つの文化が統合され、共生していくプロセスがここに描かれている。
この御霊水には今も尚、強力な霊力が満ちていると感じた。柄杓で掬った霊水で手を清め、池畔をそぞろ歩く。すると内側で静かな異変が起こり始めていることに気付く。身体からするすると緊張が抜けていく。と同時に身体にきらきらと生気がみなぎってくる。こんな体験は初めてだった。喜びのエネルギーが込み上げ、思わず微笑んでしまう。祓い清めるとは本来こういうことなのだろう。





🛣️周知のとおり古代日本においては、巫女という霊的能力を持つ女性が「神のお告げ=神の意志」を伝えるシャーマンとして崇められ、また女王として政治的指導者となり、戦乱を収め、国を統治していた。
「比売大神」とはあくまでも女神を指す尊称。となれば創建当時、その地域を治めていた女王が亡くなった際に女神として崇められ、御神体と一体化して祀られるようになったと考えるのは自然だろう。
その国の名がもしも「邪馬台国」であり、女王が「卑弥呼」だったとしたならば、以下の引用文にあるように「比売大神=卑弥呼」という説が有力なものとなってくる。
<卑弥呼と宇佐神宮の祭神>
そして最終的には、卑弥呼と宇佐神宮三祭神の応神天皇・比売(ヒメ)大神・神功皇后との関連を解明することにより、卑弥呼(ヒメコ)=ヒメ大神であり、 宇佐神宮が卑弥呼の墓と断定が可能となるのです。
卑弥呼の読み方はヒミコまたはヒメコで、江戸時代から第2次大戦まではヒメコ=姫子=姫児と読まれていましたが、現在ではヒミコが一般的です。
これは「弥」文字は通常は「ミ」と発音するからです。
しかし古文献の特殊な約束によれば、姫を意味するヒメの場合に限ってメ音を「弥」文字で表した事実があります。すなわち卑弥呼の「弥」文字は姫を意味するものと して「メ」と訓み、他の場合の「弥」文字は「ミ」と訓んで差し支え有りません。
このように卑弥呼=姫子=ヒメコとして、その意義と不可分の関係において「ヒメコ」と読むべきであります。
卑弥呼=天照大御神とすれば、卑弥呼(ヒメコ)=日女子(ヒメコ)であって、「太陽の女の子」との意味かも知れません。
邪馬台国の位置と日本国家の起源
https://washiyamataikoku.my.coocan.jp/paper/paper23.html#:~:text=%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC%E3%81%A8%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%9E

🛣️卑弥呼が亡くなったとされる西暦247年(或いは248年)頃は、九州地方においてのみ皆既日食が見られた年とされる科学的根拠と一致する。日本神話の天岩戸隠れの伝説は、卑弥呼の死去を意味したものと考えられる重要な手掛かりがここにある。
そうなると元々は九州にあった「邪馬台国=ヤマタイ国」が畿内まで勢力を広大させ、やがて「大倭国=ヤマト国」となったという東遷説が俄かに真実味を帯びてくる。
『魏志倭人伝』の記述にある卑弥呼の名は、当時の魏の人が考えた当て字であり、また卑弥呼と言う名前は固有名詞ではなく、当時の「太陽信仰に仕える巫女」という意味の役職名のようなものだったと考えていい。実際の卑弥呼は個人名を伏せ、人前に姿を見せることはなく、神のお告げを弟に伝え国務を任せていた。


🛣️ヤマト王権は畿内に誕生する際に邪馬台国の精神的基盤だった「太陽信仰」を継承した。しかし国家全体の統制を計り盤石な基盤とするために、卑弥呼という霊力による個人的な支配と信仰形態を否定し、太陽神の子孫(天孫)が国を治める神話を生み出し、万世一系という統治システムを構築した。
「天照大御神」とは新たに皇祖神として神格化した存在であり、このことによって国家を統率する枠組みが誕生し、海外勢力と対峙することができた。このようにして卑弥呼の名は神話には一切登場せず、封印されていくことになる。
ヤマト王権は、3世紀後半から畿内を中心とする地域で誕生し発展した。宇佐神宮が創建されたのは8世紀になってからのこと。朝廷のルーツである宇佐に記念碑的な神社を残し、畿内と九州とを結ぶホットラインを形成することによって、ヤマト王権は自らの正当性と支配力を確立し、国家的な規模での権威をより盤石なものにするという狙いがあったのではないか。そのことが「伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟」として朝廷から極めて篤い崇敬を受けていた理由ではないだろうか。




🛣️卑弥呼の墓がどこにあるかについては諸説ある。実際に二之御殿の下には石棺の蓋があることまでは分かっている。しかしそれが誰のものなのかは未だ解明されていない。
では卑弥呼はいったいどこで神に祈りを捧げていたのだろうか。
宇佐神宮では下宮も上宮とまったく同じ三柱の神が祀られている。上宮は国家鎮護の神として、下宮は庶民のための神として祀られた。
上宮のルーツは境内の御霊水だった。しかし下宮の御神体のルーツは境内にはなく、西へ直線距離で約6.5kmほど離れた大分県中津市にある薦神社(別名「大貞八幡宮」)境内の「三角池(御澄池」にあった。この霊池が宇佐神宮の祖宮となる。
この三角池は渡来系の氏族が建設した「ため池」である。ここが発祥の地となり、後に四国、中国、近畿へとため池や灌漑が分布していった。
この池に古くから自生している「マコモ」という草がある。それを刈り取って作られた「御薦枕」と呼ばれる枕のような形をしたものが、宇佐神宮の神の依り代となっている。
宇佐神宮では、この枕を新調するために、この三角池までマコモを取りに行く「行幸会」という儀式が、今でも6年に一度執り行われている。このことから宇佐神宮と薦神社とは密接な関係にあるということが分かる。
宇佐神宮の御霊水、薦神社の御澄池、どちらにも共通して存在する信仰形態の母体とは「水」である。つまりこの地で巫女が崇めていた御神体とは「水」そのものだったと考えられる。








🛣️宇佐神宮の成立の背景にある最大の特色は、この土着信仰=水信仰の象徴としての「比売大神」と、ヤマト王権の信仰=太陽信仰の象徴としての「応神天皇」と母「神功皇后」の両方を祀ることによって、水と太陽という命を育む二大要素を融合させた信仰体系を確立させたという点にあると考えられる。御薦枕が御神体となるのは、マコモが水と太陽が出合う三角池に自生しているという象徴的な意味を持つ存在だからだ。
邪馬台国の所在地にはここで述べた宇佐説の他に、九州各県や畿内説があり、また四国や中国、北陸、中部、関東、東北、沖縄、海外説というものまである。どの説も説得力があって決着がつく見通しはまったくたっていない。しかしどこであれ、卑弥呼という女王がいて、神に祈りを捧げ、御神託を受けていたという事実は変わらない。
もしかしたらため池が造られる以前、この場所には宇佐の御霊水と菱形池と同じような泉と美しい池があったのではないかと思う。その池畔に卑弥呼は静かに佇み、水面の静寂と陽の光とが織り成す天界の調べにそっと耳を澄ませていたかもしれない。

三角池(薦神社 内宮)
写真: Emmanuel Mababa
Google Maps
大分県別府市 鉄輪温泉

🛣️鉄輪温泉は別府八湯のひとつ。別府湾と由布岳を中心とする山岳地帯との間に広がる緩やかな傾斜地の中腹にある。昼夜を問わず湯けむりが立ち昇る光景は、国の重要文化的景観にも選定され、鉄輪の名物とも言うべき独特な風情を醸し出している。
街を貫く「いでゆ坂」と呼ばれるくねくねとした坂道やその脇道には、多くの旅館や湯治宿、共同浴場、無料の足湯、飲食店などが立ち並んでいる。また民家やアパート、寺などもあり、観光客向けとしての温泉地と地元住民の生活空間が混在した地域となっている。
その日の夜は、いでゆ坂近くにある八部屋だけのこじんまりとした旅館「八葉」に泊まった。部屋はやや狭かったが半露天風呂もあり、料理が評判の宿だ。


🛣️夕食は、大分県産の食材を使用した会席料理。メインは関あじ、伊勢海老を中心とした大分県産の海鮮盛り合わせ、豊後牛の蒸ししゃぶ、豊後牛のステーキなど。目の前の鉄釜で炊く白飯が感動的だった。どの料理も見た目はオーソドックスな盛り付け方。しかし口に入れた途端に思わず舌鼓を打つ。人気の秘密がよく分かる。
夕食後、再び宿近くを散策した。日中はそこそこ人出があったが、夜更けともなるとほとんど人影は消え、八百万の神たちが湯場を求め徘徊しているかのような、何とも妖艶な気配が立ち込めていた。
共同浴場から出てきた年配の男性が、浴場前に祀られているお地蔵様に向かって手を合わせていた。地元の人々は温泉の恵みに感謝し、旅人の安全や病気平癒を祈願する対象としてお地蔵様を大切にしているという。大地から湧き出る湯に身を浸す行為は、心身を清め癒やすという禊にも通じる文化となり、人々の毎日の暮らしに溶け込んでいる。

🛣️翌朝の朝食もまた秀逸。大分名物の団子汁という郷土料理を提供するところが、この宿の飾らない心意気を感じさせてくれる。
女将さんから人気の秘密についてお話を伺った。食材はすべて地元の農家や漁家との年単位の直接契約。米は市場に流通していない農家の自家消費米。どうりで美味いはずだ。昨今の米騒動は宿泊業界にも深刻な影響を与えたが、この宿では年間契約をしているために安定して確保できたとのこと。また関アジはすべて一本釣り。多少海が荒い日でも、漁師はこの宿の為だけに船を出すという。
小規模旅館であること、こうした深い信頼関係と地道な努力がベースにあること、そして鉄輪の強力な温泉パワーという三つの要素が相まって、身も心も癒されるひとときを提供することができる。
心温まるもてなしと柔らかな湯の温もり。この宿の深い癒やしと安らぎを求めて、人は遠くからもやってくるのだろう。隣の半個室で朝食をとっていた西洋人の若い男性が女将さんに「オイシイデス」と囁いていた。女将さんはそれを聞いて嬉しそうに笑っていた。

昔々、一人の修験者が通りかかって、日も暮れかかって、一軒の家に一夜の宿を乞うた。里人は、親切に修験者を泊め、ささやかながら夜の食事も差し上げてもてなした。翌朝、修験者は立ち去るとき、持っていた錫杖をさかさにして、地面を突くと、不思議にも温泉が、こんこんと湧き出した。里人たちは、喜び感謝して、あたりの土地を錫杖の先についている鉄の輪にちなんで「鉄輪」―「かなわ」と呼ぶようになったが、いつの間にか、言いやすいように「鉄輪」を「かんなわ」というようになったそうな。
http://www.ctb.ne.jp/~yokosomc78/kannawayurai.html
























大分県国東市 両子寺

🛣️豊後水道に面した大分県北部には、日本の原風景とも言える穏やかな里山が広がっている。風景に融け込むようにして集落が点在し、地形に沿って緩やかなワインディングロードが続く。
ところが国東半島中心部に差し掛かった途端、風景は一変する。両子山周辺は荒々しい切り立った岸壁が剥き出しになり、容易には人を寄せ付けない自然環境が形成されている。
この半島は約150万年前の火山噴火によってできた「陸続きの島」と言っていい。半島の山々に降り注いだ雨は伏流水となって、西端にあたる宇佐神宮の森に御神水として湧き出ている。
この山に修行の場を見出した先人たちがいた。宇佐神宮の神職や僧侶たちである。




🛣️国東半島は「神と仏は本来同じもの」という神仏習合思想の発祥地。養老2年(718年)仁聞菩薩によって開かれたとされる。半島一帯に往時は185の寺院、洞窟、僧坊等を含めて約800の大小の堂が点在し、「六郷満山」と呼ばれる独特な山岳宗教文化が形成されていた。今日でも300カ所以上が現存している。
半島の中心部に位置する両子山中腹の、巨岩に囲まれた地に「両子寺」がある。六郷満山の中では中山本寺、すなわち山岳修行の根本道場に当たる寺である。神仏習合文化を象徴する珍しい光景として、奥の院に上がる途中には鳥居が建てられている。



🛣️急こう配の石段を上がると、そそり立つ巨岩の岩肌に食い込むような姿で、奥の院が現れた。元々は僧侶が洞窟を神仏の宿る場所「岩屋」と定め、摩崖仏や経典を刻み、寝泊まりしながら修行したのが始まりだった。
古より人々が信仰心と共に生きていたと思われる余韻は、地方に入って行けば行くほど残っているものだが、この陸の孤島のような国東半島ではより濃厚なものを感じる。
自然への畏敬の念、真理を求める情熱、祈りの強烈さ それらが幾重にも折り重なり合い、刻み込まれていった痕跡のようなものに見える。



🛣️古来の自然崇拝における巫女の存在は、神と人とが一体化する奇跡の証しとして人々の目に映ったに違いない。
卑弥呼の存在を封印し、天照大御神を皇祖神としたヤマト王権は、その強力な神話によって日本全体をひとつに統合した。さらにその後の神仏習合という奇跡的な出会いが日本独自の精神文化を開花させ、強靭な精神性を生み出す土壌となっていった。
八百万の神に祈りと感謝を捧げる古来の自然崇拝と、「仏=神」に至る実践方法とが合体して生まれた「神仏習合」の信仰形態は、神の恩寵を自ら体現し、心の安寧を願う人々にとって、生涯を賭けた探求となり得たのではないか。


🛣️自然への畏敬の念を抱く日本古来の自然崇拝と、この世の苦しみから解脱し仏に至る道を差し示す仏教思想とが出会うことによって、生きることは苦しみではなく、この現実世界を生きることの中にこそ、仏の世界、神の世界があると知った。
それはやがて巨大シェルターとなって日本全土を覆い、日本人の精神的支柱となり、また海外から押し寄せる圧力に屈することなく、日本を守り抜く強固な防御壁となった。ヤマト王権の時代から先の大戦に至るまでの間、日本が外国からの全面的な占領を受けたことはなかった。


🛣️しかし巨大シェルターは破壊された。明治初期に行われた「神仏分離」と「廃仏毀釈」は1300年以上かけて築き上げてきた信仰体系を破壊し、多くの寺院が破壊され、仏像や経典が失われた。
さらに追い打ちをかけたのは先の大戦だった。戦後のGHQの占領政策は国家神道を無力化させ、ソ連共産主義は神道を破壊し、神職たちを弾圧した。それらは日本人の強靭な精神性を根こそぎ弱体化させるための策略だった。
戦後の日本は資本主義グローバリズムと共産主義グローバリズムの狭間で、引き裂かれるように双方からの力のせめぎ合いに巻き込まれ、翻弄され、苦しみ、そして今もその激動の最中にある。それはあたかも「綱引き」の真中にあるセンターライン上に日本があるかのように見える。
教育現場から神道は切り離され、宗教的儀式は形骸化し、物質主義と利潤追求が社会の主流となり、心の拠り所を見失い、夢を抱くことを忘れ、刹那的な熱狂と興奮を追い求め、多くの子供たちが将来の夢を持てずに自死を選び、信仰や霊的探求は単なる個人的な関心事となっていった。神社仏閣が老朽化や後継者不足によって朽ち果てていく姿を里山の風景の中に目撃することも多い。


🛣️しかしながら現代社会において、既存の体制や枠組みの中ではなく、私たち個人の中に霊的な伝統が失われずに息づいていると感じることがある。
それは調和や感謝、思いやりを重んじる「和のこころ」として、また「祈り」という不可視の愛へと昇華した日本人の美意識として生きているように感じる。



🛣️このことを身を持って証明してくれたのが東日本大震災時における東北地方に生きる人々だった。悲しみと恐怖の極限状態に置かれた中で、人々は冷静さを保ち、略奪は起こらず、列に並び、限られた物資を分け合い、他者を気遣った。
それは世界中を驚かせた。日本人の中に育まれていた高潔な霊性と慈愛の豊かさが、戦後60年以上経っても決して失われていなかったことを明らかにした。
いや、そうではない。この数千年にわたる苦難の歴史全体を通して磨き上げられてきた魂の姿そのものを垣間見たのだ。


🛣️岩屋の暗がりにて蝋燭に火を灯す
炎は蝋にあらず芯を伝う
蝋燭は異なれど光は同じ
やがて蝋も芯も跡形なく消えゆく
後には何ものも残さず
されど光は昔も今も変わらず

🛣️卑弥呼は歴史に名を残すことなく、また言葉も残さずに消えていった。
しかし明治以降に起こる巨大シェルターの破壊は、表面的概念的な信念体系の破壊に留まり、国家崩壊を奇蹟的にも免れた。そして戦後の世界の潮流の深層において、意図せずに封印されてきた「自然崇拝」という核心的部分は破壊されず、温存されたのだ。
自然界の美しき存在への畏敬の念。
太陽、月、海、山、星、空、火、泉、池、川、滝、岩、木、花…。
それは私たちの中に「自然を愛する心」として刻み込まれている。
自然と共に生きているという揺るぎない強靭な精神性こそが私たちの真髄、蝋燭の芯ではないか。このことを持続可能にしているのは、他ならぬ日本の美しい自然環境と四季の移ろいという切っても切れない一体感である。
この境地には、信念体系(共同幻想)によっては決して到達することができない。何故ならばこの境地は、個人の感性と自然界の神聖さとの間に響く「ダイレクトな共鳴」から生まれるものだからだ。
古代の土着信仰の本質とはこのことを指し示しているのではないだろうか。いやそれは「信仰心」ではなく、「生きる喜び」そのものと言っていい。


🛣️光輝く太陽と豊かな水。天と地をつなぐ縦のエネルギーと、横に広がる調和のエネルギーが交わるところに大地があり、命が宿る。
ここに私たちの魂は生きている。
過去も未来も消え、その限りなく純粋な「今ここ」という真実に心を明け渡したとき、内なる光が存在の中心で輝いていることを見い出す。この実存の最深部において、世界に吹き荒れる嵐の荒波は届かない。
天の岩戸伝説に描かれた神話は千数百年の時を経て、現代において再定義される。それは天照大御神の物語では終わらない。岩戸を押し開き、心の扉を開き、世界に光を取り戻す時がきた。それは今、私たちの神話となる。
天の岩戸伝説 一部抜粋
外が余りにもにぎやかなので、大御神さまは不思議に思われ、岩戸を少し開き「私がここにこもって、世界は真っ暗だと思いますが、なぜみなそんなに楽しんでいるのですか」とたずねられました。すると天宇受売命は「あなたさまより立派な神さまがいらっしゃったので、みな喜び歌いおどっているのですよ」と答えました。その時、準備していた鏡を天照大御神さまの前に差し出すと、大御神さまは不思議に思われもう少し岩戸を開きました。
その時です。
岩戸の陰に隠れていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)は、大御神さまの手を取り、岩戸より引き出しました。 真っ暗だった世の中もみるまに明るくなり、神さまたちも大喜びです。
高天原にもまた平和がもどってきました。
https://www.jinjahoncho.or.jp/shinto/shinwa/story3/




🛣️
Kaze no Michi
Taeko Onuki & Ryuichi Sakamoto
ありがとうございます

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