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工場隣のJAZZ喫茶に集まる人々
JAZZもまだ元気がよく、間章が旧来のJAZZ評論家たちから顰蹙をかいながらも頑張っていた。
ここでアイラーやサン・ラ、ドルフィーに感銘を受ける。こうしたフリージャズの嵐の中、マイルスはいち早くエレクトリックを取り入れた斬新な方向へ向かい、やはり、総スカンを喰う。しかし、この頃の彼の音はいま聞いても唯一無比に思える。
ロックもまたある意味、インプロヴィゼーションを取り入れたJAZZに接近する方向にあり、この店ではからくもバランスを取っていた。
この店の隣には太平洋戦争の頃飛行機を創っていた大きな工場があり、そこでは戦後、まず、あまった戦闘機の車輪を有効利用したスクーターの試作生産が始まり(鈴木翁二作品に出てくるラビットスクーターはこの工場で創られていた)、のちには自動車がつくられるようになった。
そのため、この店には隣から季節労働者もやってきていた。なかにはヒッピーな連中もいて、いつの間にか店は全国のヒッピーネットワークのひとつに組み込まれていく。
URCから出ていた「フォークリポート」冬の号がわいせつ容疑で摘発される。中川五郎の小説、「ふたりのラブジュース」をメインとして、いくつかの挿絵とジョン・レノン&オノ・ヨーコ、“Two Virgins”ジャケ等がひっかかる。奇しくもこの号にはこの雑誌を介して知り合うことになる友人の投稿ものっていた。ナガシマの投稿を介して実は地元同士ということがわかり、二人はのちにフォーク・グループを結成する。
そうえんには朝家を出た高校生がそのまま入店して夕方までいたり、夜には泊まり込むものまでいた。
当時、jazz派は一癖も二癖もある連中ばかりだった。脚本の修行をしている「日銀の叔父さんに言っておくよ」が口癖のサラリーマン、海上自衛隊あがりの工員、マリンジョー、全共闘闘志、永島慎二の元アシスタント、etc,etc。
それに比べラブ&ピースが旗印のRock派は、なんだか軟弱な連中ばかりで成り立っていた。
しかし、時代の趨勢かRock派は徐々に人数を増やし、それに伴い、Jazzの客は足が遠のいていく。
このビルの2階でオールナイトのライヴが行われたり、近隣のグループとの交流も生まれていくようになった。
吉祥寺では武蔵野火薬庫、ぐゎらん堂がオープンし、東京のフォークソングの拠点となる。その店の店長もそうえんを訪れたりするようになる。
出入りしていたレコード店の店長が、エレックレコードのミュージシャンによるライヴ「唄の市」を地元で行うことになる。
メンバーは、古井戸、生田敬太郎、ケメ、そして泉谷しげる。泉谷は当時から評判が悪かった。このコンサートの前座にそうえんならび周辺一派が出演し、地元では少し有名になる。
近くの国立大学では学園祭に頭脳警察と遠藤賢司が出演。某派が見守るなか、緊張感あふれるやりとりがあったようだ。もうこのころになると、ナガシマも大学に行っているのか、喫茶店に通っているのかわからない状態になってきていた。
地元の人間が多かったため、コミューンというわけにはいかず、何人かで一軒の家を借り、共同生活を始める者が出始める。
こうした変化をもたらすきっかけとなったのは、当時、それなりの勢力を持ち始めた原始共産主義思想のもと、私有財産の完全破棄、養鶏を中心とした農業を行っていた会から訪れた人物だった。
家族でその会に入ったと言う彼はこの街で当時良く目にした針金細工でネームをつくる露天商として生活を始める。
仲間たちは休日になると紙粘土でカンバッチ様のものを創ったり、インド風な衣装を縫ったりしてそれを針金細工のネームとともに露天で売ったりしていた。
