「退職金」を「月給」に変えたら、採用も定着もうまくいく
先日、東洋経済オンラインで「退職金廃止に動く企業」についての記事を読みました。
大手企業で退職一時金制度の縮小や廃止が進んでいる。背景にあるのは採用難、賃金原資の確保、働き方の多様化。若手は「その分を今の給与に乗せてほしい」と歓迎する一方、長く勤めてきた中高年からは猛反発が起きている──そんな内容です。
読みながら、私はずっと歯科医院のことを考えていました。
歯科医院にも、退職金制度を導入しているところは実は結構あります。ただ、その「目的」を聞かれて即答できる院長は、あまり多くないのではないでしょうか。
今日はそこを掘り下げてみます。
そもそも退職金は、何のために生まれたのか
まず歴史の話を少しだけ。
退職金のルーツは、江戸時代の商家の「のれん分け」だと言われています。長年奉公した使用人に、独立資金や店の看板を分け与える。「長く尽くしてくれたことへの報い」が原点です。
これが制度として広がったのは明治後期から昭和初期。工業化が進み、腕のいい職人や熟練工がどんどん引き抜かれる時代に、企業は「長く勤めれば勤めるほど得をする仕組み」を作って人材を引き止めようとしました。戦前には退職積立を企業に義務づける法律もでき、戦後は終身雇用・年功序列とセットで日本中に定着していきます。
つまり退職金の本質は、大きく3つです。
一つ、功労報償。長年の貢献への報い。
二つ、賃金の後払い。毎月の給与を抑えて、退職時にまとめて払う。
三つ、そして最大の目的が引き止め(足止め策)。「今辞めたらもったいない」と思わせることで、人材の流出を防ぐ。
要するに退職金とは、「一つの職場に一生勤める」ことを前提に、それを促すために設計された装置なんです。ここ、後で効いてくるので覚えておいてください。
歯科医院の退職金は「節税」と「なんとなく」で入っている
では歯科業界の実態はどうか。
意外に思われるかもしれませんが、退職金制度を導入している歯科医院は結構多いです。歯科衛生士の勤務実態調査(令和元年度)では、約46.5%の歯科医院が「退職金あり」と回答しています。「なし」は39.2%ですから、業界の半数近くが何らかの形で制度を持っている計算です。
スタッフ数名の個人医院でも、中退共(中小企業退職金共済)に加入しているところは珍しくありません。
さらに私の感覚では、明確な制度として整備されているわけではないものの、退職時に一定額を支給している医院や、院長自身も制度があるのかないのかをよく把握していないという医院も含めると、実質的にはもう少し多い印象です。
※ ちなみに、退職金の相場(月給の1〜4カ月分程度)や、中退共・養老保険といった具体的な用意の仕方については、以前に弊社ブログで詳しくまとめています。制度設計の実務面はこちらをどうぞ。
ただし、その導入理由を院長に聞くと、だいたい2パターンに分かれます。
一つは節税目的。中退共の掛金は全額損金(個人医院なら必要経費)にできるので、税理士さんから「利益が出ているなら入っておきましょう」と勧められて加入したケース。これが一番多い印象です。
もう一つは「なんとなく商習慣として」。就業規則を作るときに社労士さんのひな形に入っていたから、周りの医院もやっているから、あったほうが福利厚生として体裁が整うから。
どちらも間違いではありません。節税は経営として合理的ですし、制度があること自体は悪いことではない。
ただ、お気づきでしょうか。どちらの理由にも「人材戦略」が入っていないんです。
退職金は本来「人を引き止めるための装置」として生まれたのに、歯科医院ではその本来の目的が抜け落ちたまま、税務の道具・体裁の道具として運用されている。ここに、考え直す余地があると思うのです。
若手の歯科衛生士に、「足止め装置」は効かない
では、本来の目的に立ち返って「引き止め策」として設計し直せばいいのか。
私は、それも違うと思っています。
日々、求職者の反応を見ていて感じるのは、20代の歯科衛生士・歯科助手が求人票で見ているのは、圧倒的に「今」だということです。月給、賞与、休日数、残業の有無、院内の雰囲気。何年後かにもらえるかもしれないお金は、判断材料になっていません。
これは若手が刹那的だからではなく、合理的だからです。歯科衛生士のキャリアは転職を前提に動いています。結婚、出産、引っ越し。ライフステージごとに職場を変えるのがむしろ標準的で、「一つの医院に一生勤める」前提はそもそも彼女たちの人生設計と噛み合っていない。
退職金は終身雇用時代の装置です。終身雇用が前提にない職種に足止め装置を置いても、効かないのは当然なんです。東洋経済の記事で若手社員が退職金廃止を歓迎していたのと、構図はまったく同じです。
だから「見せ方」と「配分」を設計し直す
ここからが本題です。
これから制度を考える医院、あるいは見直しの余地がある医院に私がお伝えしたいのは、採用に効く場所にお金を見せましょうということです。
たとえば毎月2万円を退職金の積み立てに回すのと、月給を2万円上げるのとでは、原資は同じです。でも求人票の見え方はまったく違います。ジョブメドレーやグッピーで求職者が検索・比較するのは月給の数字であって、退職金規程の有無ではありません。同じお金なら、応募が増える場所に置くべきです。
採用は投資です。投資である以上、リターンが見えるところに資金を配分するのが原則。退職金は「30年後に効くかもしれない施策」、月給は「来月の応募数に効く施策」です。
もちろん、節税メリットとの兼ね合いはあります。中退共をやめて月給に乗せれば、社会保険料の負担は増えます。だからゼロイチの話ではなく、「節税枠としての退職金」は残しつつ、採用原資の主戦場は月給と賞与に置く、というバランス設計が現実解だと思います。このあたりは顧問税理士さんと一緒に詰めるところです。
ただし、すでにある約束を削るのは別の話
ここで一つ、大事な注意があります。
東洋経済の記事で中高年社員が猛反発していたように、すでにある退職金規程を縮小・廃止するのは、まったく別の問題です。労働条件の不利益変更にあたる可能性があり、原則としてスタッフの了承を得るための丁寧な説明と合意形成が絶対条件になります。一方的な変更は裁判に発展することもある領域です。
10年、15年と医院を支えてくれたベテランスタッフにとって、退職金は「頑張ってきたことへの約束」です。それを一方的に削れば、失うのはお金の問題を超えて信頼そのものです。小さな医院で一人のベテランが辞める影響は、大企業の比ではありません。見直すなら必ず社労士さんに相談してください。
「これから設計する」のと「あるものを削る」のは、似ているようで全然違う話です。
税制も、転職する人に冷たくできている
もう一つ、記事で興味深かったのが税制の話です。
退職金にかかる税金の控除は、勤続20年を超えると優遇幅が大きくなる設計になっています。同じ30年働いても、一社に勤め続けた人と転職した人とでは控除額に大きな差がつく。国の制度自体が「長期勤続を優遇し、転職者を冷遇する」形のままで、政府が見直しを掲げてから数年経っても改正は実現していません。
これ、転職がキャリアの前提になっている歯科衛生士にとっては、構造的に不利な制度だということです。退職金という仕組みそのものが、明治以来の「一つの職場に長く勤める人」のために作られ、税制までそれに合わせて設計されている。歯科医療従事者は、その恩恵から最も遠い職種の一つなんです。
だからこそ医院側は、退職金という形ではなく、今の給与・今の環境で報いる設計にしたほうが、働く側の実態にも合っているのだと思います。
まとめ:「なんとなくの制度」を「戦略の制度」に
整理します。
退職金は、終身雇用を前提に「人を引き止める」ために生まれた装置です。歯科医院の多くはその本来の目的を意識せず、節税や商習慣として導入している。一方で、肝心の若手衛生士には足止め装置として機能していない──これが現在地です。
大手企業はいま、採用難を背景に「退職金を今の給与に付け替える」方向に動き始めました。歯科医院も同じ問いに向き合うタイミングだと思います。
節税枠としての退職金は残していい。でも、採用の勝負は月給と休日と働きやすさ、つまり「今」で決まる。限られた人件費をどこに見せるかは、立派な採用戦略です。
「なんとなく入れた制度」を、一度「何のための制度か」から見直してみませんか。
うちの医院の給与設計、求人票のどこにお金を見せるべきか──そんなご相談も、採用代行の中でよくお受けしています。退職金制度の実務的な作り方はこちらの記事にまとめていますので、あわせてどうぞ。

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