勘は、休めない——歯科医院の数値管理
認めたくないが、私も長いあいだ、「順調」というのは目に見えるものだと思い込んでいた。
待合室に人がいる。予約表が埋まっている。スタッフの表情も、悪くない。——だから、たぶん大丈夫。朝の景色をひと目見て、その日の医院の“調子”を決める。多くの院長が、無意識にやっていることだと思う。そして、たいていの場合、その判断は当たる。
ここが厄介なところで。感覚で回っている医院ほど、院長のセンサーが優秀すぎるのだ。何年もその椅子に座り、何度も「今日は大丈夫か」を読んできた人の勘は、そこらの数字より、よほど鋭い。鋭いから、数字を見ない。見なくても、当たるから。
(では、その勘が外れる日は、いつ来るのか。)
外れる、のではないと思う。ある日ふっと、勘そのものが、その場からいなくなるのだ。院長が体調を崩した日。長く現場を空けた日。あるいは、代が替わる、ずっと先のいつか。医院の“目”が、たった一人の頭の中にしか無かったことに、そこで初めて気づく。
医院は、赤字になれば気づく。通帳が減って、数字が赤くなれば、さすがに誰でも気づく。私がむしろ怖いと思うのは、その手前にいる医院のほうだ。黒字なのに、なんとなく、少しずつ痩せていく。誰も声をあげない。院長本人でさえ、「まあ、こんなものか」と思っている。景色は、今日も悪くないから。
痩せているのに気づかないのは、体重計に乗っていないからだ。鏡だけを見ていると、人は自分の変化になかなか気づけない。毎日見ている顔ほど、昨日との差がわからない。医院も同じで、毎日その中にいる院長ほど、ゆるやかな下り坂を“坂”だと感じられない。
その“痩せ”は、たいてい、わかりやすい顔では現れない。よくあるのは、こういう型だ。長く通ってくれていた人が、呼びかけに返事をしなくなる。ひとり、またひとり、静かに。けれど同じ月に、新しい患者がそこそこ入る。だから、その日の予約表は、ちゃんと埋まっている。総数は、横ばいに見える。院長の鏡に映るのは「今日も埋まっている」という景色だけで、水面下で常連と新患が入れ替わっていることは、どこにも映らない。
もう一つ、もっと静かな落とし穴がある。その「なんとなくの判断」が、院長ひとりの頭の中だけにあることだ。スタッフは院長の顔色を見て動くけれど、院長が何をどう読んで「大丈夫」と言っているのか、その中身は、たいてい誰も知らない。医院の“目”が、たった一つの頭の中に閉じ込められている。——これは、けっこう、危うい。
そして——常連が抜けて、新患で埋め直し続ける医院と、常連が静かに積み上がっていく医院とでは、五年後の姿がまるで違ってくる。前者は、走り続けないと、同じ場所に留まることさえできない。後者は、黙っていても、少しずつ水位が上がる。同じ「予約表が埋まっている」でも、中身は正反対なのだ。けれど、総数という一つの数字だけを眺めていると、この二つは、どうしても見分けがつかない。走っているのか、積み上がっているのか。表の景色は、それを教えてくれない。
一度、こんな場面を想像してみてほしい。院長が、少し長い休みを取る。悪いことではない。むしろ、それができる医院のほうが、ずっと健康だ。ただ——その二週間のあいだ、スタッフの誰かが「今月、うちは大丈夫ですか」と外から聞かれて、答えられるだろうか。院長がいつも見ていた“何か”を、同じように読み取れる人が、ほかにいるだろうか。
たいていの医院で、その答えは「院長に聞かないと、わからない」になる。それは裏を返せば、医院の調子が、いまもまだ、一人の勘に預けられたままだ、ということだ。勘は、優秀だ。長年の勘は、下手な数字よりずっと正しい。でも、勘には、どうしても越えられない弱点が三つある。持ち出せない。引き継げない。そして、休めない。
だから、本当に要るのは、その勘を勘のままにしておかないことだ。院長の頭の中で光っている“何か”を、誰が見ても同じように読める目盛りに、外へ出しておく。それだけのことなのに、なかなか、できない。それができている医院は、院長がいない二週間も、自分の調子を、自分で読める。
こう書くと、「わかった、では数字を見ればいいんだな」と思うかもしれない。売上を、毎月きちんと追えばいい、と。
でも、たぶん、そこがいちばん多い勘違いだ。
数値管理を「売上を追うこと」だと思っている限り、この落とし穴は埋まらない。売上は“結果”だからだ。結果の数字は、坂を下りきったあとで、ようやく赤く光る。光ったときには、もう、ずいぶん下っている。バックミラーだけを見て運転しているようなもので、そこに映るのは、通り過ぎた景色だけだ。
見るべきなのは、結果が出るより前に、静かに鳴りはじめる計器のほうだ。坂を下り始めた“その瞬間”に、針が動く目盛り。予防型の医院で本当に据えるべきなのは、そういう種類の計器で——では、それは、何を数えた計器なのか。
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