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「押し売りみたいで、言えない」——その正体について

正直に、書く。

「次は、定期的なメンテナンスでお待ちしていますね」 そう患者さんに伝えるとき。あるいは、保険のなかだけではどうしても届かない選択肢を、ひとつ、そっと差し出すとき。

喉のあたりで、言葉が一度つっかえる先生を、私は近くで、何人も見てきた。

つっかえるのは、口下手だからではない。むしろ逆だ。 患者のことを本気で考えている先生ほど、その一瞬、口ごもる。

「これ、押し売りに聞こえないだろうか」 「お金のために言っていると、思われないだろうか」

そう感じた瞬間、声がわずかに小さくなる。語尾がにごる。 そして「まあ、無理にとは言いませんけど」と、自分で自分の提案を、そっと引っ込めてしまう。

(わかる。痛いほど、わかる。)

なぜか。 多くの先生は、「治すために」この道を選んだからだ。「売るために」ではなく。 だから何かを勧めるたびに、いちばん最初の志を、ほんの少し裏切っている気がしてしまう。その後ろめたさが、提案の語尾を、にごらせる。

つまり——いちばん厳しい税関は、患者さんの側にあるのではない。 先生自身の、心の中にある。

まずは、ここを認めてしまったほうがいい。 「押し売りと思われたくない」というあの抵抗は、気の弱さでも、営業センスの欠如でもない。むしろ誠実さの、裏返しだ。誠実な人ほど、この関所で足を止める。

──

そして、椅子の向こう側でも、よく似たことが起きているはずだ。

「健康のために、続けて通ってください」も、 「より良い選択肢として、こういう方法があります」も、 患者さんの耳には、しばしば同じ形で届く。「ついでに、これもどうですか」と。

やっかいなことに、丁寧に説明しようとするほど、それは熱心なセールストークに近づいて聞こえる。 善意の説明と、売り込み。この二つが、相手の中でひとつに溶けてしまう瞬間がある。

だから、すれ違う。 こちらは健康の話をしているのに、向こうはお金の話を聞いている。

──

では、この混同の正体は何か。 少し、たとえ話を。

同じ「これ、おすすめですよ」という一言でも、ソムリエが言うのと、路上の客引きが言うのとでは、まるで逆の響きになる。 ソムリエの「おすすめ」は、信頼として受け取られる。客引きの「おすすめ」は、警戒として受け取られる。

違いは、勧めている中身ではない。差し出された一本は、同じワインかもしれない。 違うのは——「誰の利益で、それを言っているのか」が、相手に透けて見えるかどうか、だ。

ソムリエの言葉の裏には「あなたの今夜のために」がにじむ。 客引きの言葉の裏には「私の今日の売上のために」がにじむ。 人は勧められた瞬間に、その裏側を、無意識に嗅ぎ分けている。

「押し売り」とは、商品の問題ではない。 文脈の問題だ。

そして——ここがいちばん大事なところなのだけれど。 その文脈は、勧める、まさにその瞬間に作れるものではない。

──

メンテナンスを勧めて「押し売りっぽい」と感じてしまう。 保険外の選択肢を出して「お金の話みたいで、気が引ける」と口ごもる。

この「出口」での歯がゆさは、たいてい、もっと手前で決まっている。

入口だ。

この医院は、そもそも誰を迎える場所なのか。 治すことだけを望む人も、健康を一緒に守っていきたい人も、まったく同じ顔のまま受け入れているのか。それとも、最初のひと部屋で、これから始まる関係の前提を、静かに取り決めているのか。

その提案を、どんな場でしているのか。 治療の慌ただしさの延長で、椅子を倒したままの数十秒で切り出しているのか。それとも、その話のための場所が、きちんと用意されているのか。

入口で「私たちは、こういう場所です」を手渡していない医院では、出口での提案が、すべて「突然のセールス」に見えてしまう。 文脈という土台のないところに、提案だけがぽつんと置かれる。だから、ソムリエの言葉が、客引きの言葉に化けてしまう。

逆から言えば—— 出口の押し売り感に苦しんでいる先生は、たいてい、入口を素通りしている。

これは、話し方を磨いても消えない。 声を優しくしても、説明の言葉を足しても、根っこが「文脈の不在」である以上、押し売り感は、形を変えて何度でも戻ってくる。

直すべきは、出口の話術ではない。入口の設計だ。

──

では、その入口を——誰を迎え、どんな場で会うのかを——どこから、どう書き始めればいいのか。

それは、語尾をにごらせない先生たちが、開業のいちばん最初に、静かに済ませてしまっていることでもある。 やっていることは、そう変わらない。ただ、順番が、逆になっているだけ。

あなたの医院の入口には、いま、何が書いてあるだろう。

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