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「集めているのに、楽にならない」——立ち上げ期の、あの焦り

最初に、はっきり書いておきたい。

開業して間もない頃、治療で新患を獲りにいくのは、正しい。 患者層がまだ薄いうちに、確実に今日お金になるもので足場を固める——これは弱さでも、妥協でもない。立ち上げ期の、まっとうな生存戦略だ。

だからこの話は、「治療なんてやめて予防に全振りしろ」という奇麗事ではない。むしろ、逆の入り口から始めたい。

──治療、おおいにやってください。 ただ、ひとつだけ。それ、貯まっていますか。

(ここで胸の奥が、ちくりとした先生がいるかもしれない。)

立ち上げ期の院長を近くで見ていて、いちばん歯がゆかったのは、ここだった。 新患は、ちゃんと来ている。広告も出した、紹介も少しずつ増えてきた、チェアもそこそこ埋まっている。なのに、何ヶ月経っても、どこか楽にならない。水位が上がった気が、しない。

「これだけ集めているのに、なぜ」

──その焦りの正体を、少し解いてみたい。

──

たとえ話を、ひとつ。

涸れかけた井戸から水を汲むとき、最初に上から一杯、水を注ぐ。呼び水だ。 呼び水を注ぐのは、正しい。それがなければ、ポンプは噛まない。

治療で新患を集めるのは、この呼び水によく似ている。 最初の一杯を注がなければ、何も始まらないのだから。

問題は——呼び水を注ぎっぱなしにして、ポンプにつないでいない井戸が、とても多いことだ。

注いだ水が、そのまま地面に染みて、消えていく。 新患が来る。治る。「お大事に」。帰る。そして、もう来ない。 また次の新患を集める。同じことが、くり返される。

これは、水を汲んでいるのではない。水を、こぼし続けているだけだ。

立ち上げ期の本当の苦しさは、「治療をやっていること」ではない。 あれだけ集めたのに、一滴も貯まっていかない——その手応えのなさ、なのだと思う。

通帳の上では、お金は動いている。チェアも埋まっている。なのに、来月もまた、ゼロから新患を探さなければならない。 今月来た人の多くは、来月にはもう、いない。だから毎月、振り出しに戻る。砂に水を撒くように、撒いては乾き、撒いては乾く。 忙しいのに、楽にならない。働いているのに、積み上がらない。──この感覚を、立ち上げ期のいちばんしんどい時期に味わった先生は、少なくないはずだ。

──

では、なぜ、呼び水を貯める側につなげないのか。

意志が弱いから、ではない。「予防が大事だ」とは、頭ではみんなわかっている。 わかっているのに、できない。理由は、もっと身も蓋もないところにある。

余力が、ないからだ。

治療で来た人を予防へ渡すには、そのための仕込みが要る。伝える人、伝える場所、伝えるための時間。どれも、ただではつくれない。 ところが立ち上げ期は、その余力が、いちばん薄い。

開業の借り入れがある。スタッフの給料がある。自分の生活も、ある。毎月、決まった日に、決まった額が、出ていく。 その圧力の前では、「いつか実るが、今日は一円にもならない予防の仕込み」は、どうしても後回しになる。明日の売上と、三年後の水位を並べて選べと言われたら、人は明日を選ぶ。選ばざるを、得ない。

だから、貯める導線にまで、手が回らない。 水をこぼしている自覚は、ある。でも、こぼれを受け止める器を用意する余裕が、ない。

一日の終わりに、ふと思うのだ。今日も、予防の話を、ちゃんと切り出せなかったな、と。 明日こそ、と思う。けれど明日も、目の前の治療で、一日が埋まっていく。 その小さな先送りが、一週間、一ヶ月、一年と積み重なって——気づけば「治療だけの医院」が、できあがっている。誰かが、そう決めたわけでも、ないのに。

——軸がブレているのではない。 余力という名の重力に、引かれているだけだ。

これは、気合いで持ちこたえる話ではない。気合いで、重力には勝てない。 持ちこたえるためのものは、開業の、もっと手前で用意しておくしかない。

──

そして、ここがいちばん怖いところだ。

治療で売上が立っている間は、この問題は、表に出てこない。数字は回っている。外から見れば、ちゃんと繁盛している。 だから気づかないまま、二年、三年と、同じ綱渡りが続く。新患を追いかけ続ける車輪から、降りられないまま。

水位が上がらない医院は、たいてい、潰れはしない。 ただ、いつまでも、楽にならないだけだ。

──

治療は、呼び水。注ぐのは、正しい。 ただ、注いだ水が地面に消えるか、ポンプにつながって水位になるか——それは注ぎ方ではなく、その井戸が、最初にどう設計されていたかで決まる。

だから、問い直したい。

立ち上げ期に足りないのは、新患でも、やる気でもない。 集めた水が貯まり始めるまでの、その渇きの期間を——何で食いつなぐか、だ。 そこを空白にしたまま開けた井戸は、どれだけ呼び水を注いでも、水位にはならない。

渇きの期間ぶんの、兵糧。 それを、開業のどの段階で、どれだけ積んでおくか。 水位が上がるかどうかは、たぶん、注ぎ方よりも、そこで決まっている。

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