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京街道をあるく⑨

今回もぼーだよ。こんにちは⁉

宿場について

今回は、宿場について詳しく説明します。

宿とは

 宿は宿泊をさすのではなく、宿駅で、「次」と数えたのは、各駅に伝馬や飛脚の継立(つぎたて)をおこなうという意味です。宿は宿るの意味もあり、鎌倉時代には宿泊施設も整ってきました。ただし、東海道でも発着地にあたる「江戸」「京都」「大坂」には宿場というところがありません。

宿場とは
宿場は、街道沿いの交通の場所に幕府が認めた集落で、道中奉公または領主の支配下に宿役人などが業務を運営しているところで、街道に2~3里(8~12km)ごとに置かれました。宿場には本陣・旅籠などの宿泊施設や人馬の継立てをする問屋場が設けられています。

問屋場
各宿にあり、公用の事務をするところで、すべての道中の事務をあつかっています。問屋場には問屋役人の年寄、帳付、馬指など土地の有力者が常備しており、宿泊の世話から飛脚の業務までしました。


●宿泊施設

本陣・脇本陣
天皇の勅使、公家、大名、公用の役人が宿泊する施設です。宿場によって本陣や脇本陣の数は異なります。天保14年(1843)の調べでは、東海道で本陣数の最も多い宿場は、箱根と浜松が6軒で、両者とも脇本陣はありません。反対に本陣も脇本陣もない宿場は55番目の淀宿です。本陣と脇本陣は、一般の旅籠などには認められなかった、門・玄関・書院を設けることができました。参勤交代の大名たちは前もって予約をしておきます。本陣への休泊料金は、本陣が請求するのではなく、あくまでも祝儀で、西国街道の郡山本陣に残っているものでは、嘉永3年(1850)頃は、一泊につき200疋(1疋は、10~25文)くらいが多かったようです。大名も苦しかったと思われます。


●公定の宿泊料金は

 一人につき100文で、昼食は48文くらいが公定で、庶民たちの宿泊料は200文以上はしました。

脇本陣
本陣は一般者(庶民)は宿泊することができませんが、脇本陣は、通常は普通の旅籠として営業しており庶民も宿泊できます。
脇本陣は、本陣が埋まっているときに大名や公用旗本、幕府の役人らも宿泊することもあります。

旅籠屋
旅籠屋には大・中・小と区別されていますが、その基準ははっきりしませんが参勤交代の時、家臣たちの上位の者が、いい宿に泊まるとというように上下の格付けをしたらしいです。一般の旅人や公用でない武士も宿泊します。

※天保10年(1839)頃の旅籠代は最低200文、最高500文 平均260文(約3,600円)

木賃宿(きちんやど)
木賃宿は、宿泊者が米や木(宿で木を買うことを木賃・木銭)等を持参して自炊したり、宿で炊飯してもらうこともありました。寛永3年(1626)の大坂では、部屋代は4文、馬は1疋8文、木銭は4文で、自分で薪を持ち込むと木銭は2文でした。

人馬制度
宿場で、人馬の継立には、将軍が発行する御朱印状、老中、京都所司代、江戸町・大坂町奉行が発行する御証文は無償で利用できます。
幕府が認めた旅行者に限り御定賃銭で参勤交代の大名たちが利用できます。一方、一般の旅人は、相対賃銭で使用者と人馬稼ぎの者とが相対交渉で賃銭を決めます。

助郷のおこり
時代とともに文化も進み、一般に生活も向上し経済的に恵まれるようになると、参勤交代の大名や役人の他にも一般庶民の旅行者や商人の行き来も増え、同時に荷物の運搬も増えてきました。大名の中から、「荷物を運ぶのに、人馬を増やしてほしい」という声が出て、そこで助郷制度が設けられました。元禄7年(1689)に、東海道と中山道の各駅に助人馬を出す村々が割り当てられ、それを助郷と呼ぶようになりました。助郷には常時課せられる定助郷。臨時に課せられる加助郷、大助郷が設けられました。

囲い馬
宿場に常備している人馬が、すべて使用されると緊急時に困るため、人足5人、馬5疋を常備するようにしました。その後、安永年間(1773~80)頃には、25疋、15疋となり、これを先の5人5疋に合わせると、30人25疋となり、70人80疋の人馬を使用すれば、その不足分は、助郷村へと割り当てることができるわけです。これを七八遣いと言います。

間ノ宿・合い宿
間ノ宿は、間村ともいい、幕府が認めた正規旅人の休憩所です。立て場茶屋と同じように、茶屋でもちや団子を食べたり、昼食などをとり休憩するところで、宿と宿場の間にあります。宿場は、人足をはじめさまざまな御用を努めているため、宿場を保護する意味もあり、間ノ宿は旅人を宿泊させることは禁止されていました。

松・杉並木
街道沿いには、松や檜、杉、樫の木など年中緑の常緑樹が植えられました。その目的は、道筋もはっきりし、並木で日差しや風雨から旅人を守ってくれることでした。

高札場
幕府から出された法令などを掲示されている場所であり、札の辻ともいいます。木の札には、御法度や掟などが墨書きされ、この木札は宿場や追分、渡舟場、関所など人目につく場所に立てられました。
立札の内容は、御条目御礼、毒薬御札、人馬貨御札、上下人足御札、付火など5枚の木札に書かれています。

見付け
宿場の出入り口にある旅人の見張りをしていたところです。もとは、城門のことで、通行人を監視・検察・するところで、江戸城には内部、外郭に36の見付けがあったといわれています。ちなみに、枚方宿には、東見付けと西見付けの跡が表示されています。

一里塚
慶長9年(1604)2月4日に、「諸街道に一里塚を築く事」と「将軍仰せ出され、諸街道に一里塚つき申すべ由」と命じられ、江戸日本橋を起点に、主な街道に一里塚を順次築かせました。『徳川実記』に「三十六町を一里と定める」とありますが、これは、現在の3.9kmにあたります。一里塚は旅人によく目立つように五間四方(9m)に盛土で一段と高くしていますが、実際はこれより小さかったそうです。一里塚には年中茂っている木が植えられており、その多くは榎です。大名が、宿場に休泊したり通行する場合、見付け一里塚まで本陣の主は裃や羽織り袴姿で、その他の門屋や庄屋など宿役人らも身分によって異なりますが、送迎しました。

茶屋
茶屋は、宿と宿の間にありますが、宿内にもありました。大名から庶民まで、旅人の休憩所で、旅の途中に体を休め、団子や餅、昼食など土地の名物を食したり、土産物もあり、ここは、旅人の楽しみの一つでした。

街道幅
徳川家康が慶長9年(1604)、大久保長安に命じて、街道の幅員は5間(9m)で両側に松や杉の木を植えました。人が通る道幅はかなり狭くなります。宿場は道幅2間~2間半(3.6m~4.5m)で、問屋場のあった市場町は荷物の積み下ろしや旅人などで混雑するため、かなり広くなっていました。

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