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京街道をあるく⑦

ぼーだよ。

今までも京街道について説明してきましたが今回は、街道について詳しく説明します。

街道について

●街道について

  大化の改新(645年)後、中国の唐の制度を取り入れ、駅馬伝馬制度ができました。主要街道に馬屋が設けられ、旅人を支援しました。このような「馬制」は奈良時代にはすでに定着していました。

 京から太宰府へ向かう山陽道には駅ごとに20疋ずつ、東海道では10疋ずつ駅馬を準備していました。そんななか、最速で道の整備がされたのは、五畿七道で、都に近い大和・山城・河内・摂津・和泉の5国を畿内とし、他の諸国を東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7道が都から各地方の道と整備されました。これらの道は街道ではなく、行政範囲を指しました。つまり、当時の東海道は線ではなく、広い地域のことでした。律令時代の官道には馬屋が置かれましたが、その時代は旅人が少なく、「交通網」とは程遠い状態でした。

●平安時代

 都が平安京へ移ると、京を中心に諸国に通じる街道整備が行われ畿内・東海道・東山道・北陸道・三陰道・山陽道・南海道・西海道の国府に至る主要幹線が設けられました。さらに、大宰府と結ぶ山陽道を大路。東国・陸奥・出羽と結ぶ東海道・東山道を中路。北陸路・山陽道・南海道・西海道を小路として、駅場も置かれました。これらの道は、国衙と軍衙を結ぶ伝馬の通る道もつくられ、駅伝制が徐々に全国的に整備されてきました。つまり、政治の中心地が変われば道路の中心地も変わってきます。


●文禄堤と京街道

 鎌倉時代の政治の中心地は鎌倉ですが、畿内の交通路はほとんど変化がなかったようです。戦国時代に入ると諸侯が自らの信念に基づき個別管理を行ったため、統一性のない街道整備となりました。徳川家康が関ヶ原の戦いの勝利から間もない慶長6(1601)年に、確固とした街道政策を打ち出すまでは、明確な街道政策は見られませんでした。

 豊臣秀吉は、文禄2年(1593)頃に伏見城の工事にとりかかり、翌年には半角的に築城工事をスタートし、慶長元年(1596)には完成しました。

 当時は伏見から大阪への道は二つしかありませんでした。一つは、淀川の水運の利用です。京と大坂を結ぶ淀川沿いは、特に枚方からの下流が泥湿地であったため、淀川に沿った最短の道がなく、伏見から大阪への行くには水運を利用しました。二つ目は、陸路です。伏見から八幡に出て、洞が峠を越え東高野街道を通るか、橋本から樟葉に出て枚方から、生駒山系の西麓を通り磐船街道や四条畷から行基道を利用するか、大東の中垣内から古堤街道を迂回して大坂や伏見へと行き来していました。

 よって、秀吉は、伏見城と大阪城を結ぶ街道として、淀川左岸に文禄3年(1594)から慶長元年(1596)にかけて、西国大名の毛利三家(毛利・小早川・吉川)に命じさせて築城させました。これが文禄堤です。この文禄堤は守口市本町に現存しています。

文禄堤の目的は

 ①淀川による河内(大坂)平野の氾濫を防ぐこと。

 ②築堤により、他の水路を安定させること。

 ③軍事の時に、堤防を切って平野を水で満たし大坂城を守ること。

 ④淀川左岸に築城し、堤防上に伏見城と大坂城を最短距離で結ぶ道路。

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