京街道をあるく⑧
モンちゃん、もうちょっとっで終わるからまっててね。
ぼーだよ。
今回は、3代将軍が築いた東海道57次について説明します。

●徳川家康が定めた「東海道宿駅伝馬制」
家康は慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで勝利を得て実権を握ると、直ちに大久保長安など3人に街道調査を命じ、たった3ヶ月後の慶長6年正月には江戸と京を結ぶ新たな東海道を定めました。そして、この新東海道に約40カ所の宿駅を選定し、「伝馬朱印状」と「天馬定書」を下付したのです。この40程の宿駅には人足36人と伝馬36疋ずつ常備させ、次の宿駅までの送客を義務付けました。これが「東海道宿駅伝馬制」です。この伝馬業務を命ずる証書を「伝馬朱印状」です。同時に、各駅に対し具体的に常備させる馬や伝馬数や伝馬範囲、さらには年貢の減免などを通知する通達書を「御伝馬之定」です。
●2代目徳川秀忠が大坂まで延長
秀忠は慶長10(1605)年に将軍となり、大御所・家康の意を汲みながら着実に全国支配を固めました。慶長19年からの大坂の陣では家康を支えて豊臣軍と戦い、翌年の慶長20年5月8日の大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させました。その後、大阪地区を完全に掌握し、ただちに、東海道の大阪延伸に着手しました。大坂の重要性を熟知した家康の意向を受けたものと言われています。
東海道延長には、大坂関跡を越えてしばらく京方に進むと髭茶屋追分と呼ぶ分岐点があります。そこから東に向かう伏見街道を「大坂への東海道」として、再整備し、新たに東海道伝馬制を導入したのです。最終的に、この延長部分に伏見・淀・枚方・守口の4宿を置き、東海道として幕府が直接管理しました。大坂まで延長された東海道には、「文禄堤」が含まれます。この文禄堤は完成後「京街道(大坂街道)」として地元市民に親しまれていたので、東海道に編入されても、町民達は「京街道(大坂街道)」と呼び続けました。なお、髭茶屋追分から三条大橋までの街道もそのまま東海道として管理され、京への人馬継立も継続されました。その後、幕府は西国大名に対し参勤交代に今日へ近寄らないように指示しますが、これは各大名が朝廷に近づくことを嫌ったものです。
●3代目徳川家光が57次を完成
家光は将軍就任直後の寛永元年(1624)年に、石薬師宿~亀山宿間に東海道最後の宿駅である「庄野宿」を設け、これにより江戸~京は53宿・53継立に、江戸~大坂は・57宿・57継立となりました。したがって、「京までの東海道53次」並びに「大坂までの57次」は家康から家光までの3代の将軍がかかわって築いた東海道宿駅伝馬制です。
●寛永期の交通政策
近世の東海道交通は、慶長6年(1601)の宿駅設置によって始まりましたが、その後の幕府の交通政策によると、3将軍家光の寛永年間(1624~44)がとりわけ重要な画期となっていたことがわかります。まず第一に、将軍などの上洛が与えた影響です。寛永11年(1634)の
3代将軍家光の大上洛は、幕府の交通政策や宿駅制度に決定的と言ってよいような影響を与えました。この上洛の随行者は30万人あまりにおよんだといわれていました。このような将軍家光の大上洛や寛永14年(1637)年から翌年にかけて起こった島原の乱の大軍派遣などは、確かに近代交通制度の整備・確立に大きな影響を与えましたが、それはある意味一時的な問題でした。それに対して、第2に注目されるのは、諸大名の参勤交代が制度化されたことです。参勤交代による多数の人馬の往来は、この後近世を通じて交通の面でも基本的な問題となり、本陣の整備なども始まることになりました。幕府は寛永12年(1635)年に元和の「武家諸法度」を改正し、その第2に新たに参勤交代を義務付けました。諸大名は江戸への参勤か、国許への下向か、いずれにしても毎年一度は必ず街道筋を通ることになりました。特に東海道は東海・西国諸大名の通行が多く、以後幕末に至るまで、この参勤交代が街道交通の主要な要素を占めることになりました。この参勤交代の制度化に伴って、近世宿場の役割や景観を代表するいわゆる本陣の整備が始まりました。第3に、寛永年間は、交通量の増大に伴って、宿継人馬の体勢が強化された時期でもありました。1つは、近世宿駅の設定以来36人・36疋出あった東海道各宿の常備人馬が、100人・100疋へと大幅に強化されました。そしてもう一つは、寛永14年(1637)に、助郷制の前身である助馬令が出されたことです。こうして、宿馬が不足して荷物の継ぎ送りに支障が出るような場合に、指定された宿近在の村々から助馬を出させることが始まったのである。この、助馬制はしだいに整備・拡大され、寛文年間(1660年代)には、宿人馬が不足した時に恒常的に出役する定助と、定助でもなお継立に支障が出る場合にそれを補充する大助の村々とが指定された。それらは、最終的に定助郷に一本化されました。最後に、関所制度の面でも、各所の関所の通関規定3カ条が定められたのは、寛永2年(1625)のことでした。
