透明ティラミスーー台所で祈る少女とバナナの皮でスベりたい少女①
1|言葉の城は、少しだけ遠すぎて
職員室の窓辺に、七月の光が落ちていた。
白いプリントの端だけが、少し眩しい。
「桐野」
担任の藤井先生は、声を落として言った。
「指定校推薦の話だ。君が本当に望むなら、僕は推薦したいと思ってる」

机の上を、プリントが静かに滑ってくる。
心春は、そこに書かれた文字を見た。
早稲田大学。
文学部。
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
「今の文学部は、昔の“一文”とは少し形が変わってる」
先生は続けた。
「でもな、言葉を深く扱う場所であることは変わらん。伝統的な人文学をしっかりやるところや」
一拍。
「文化構想っていう選択肢もある。あっちは、もっと横断的や。分野をまたいで考えるタイプの学び方やね」
――横断的。
その言葉が、少しだけ軽く聞こえた。
(……違う)
自分の中にある“言葉の場所”は、もう少し静かで、もう少し重たい。
深く潜っていくような場所。
「現時点では、君が候補の一番手だ」
先生は、やさしく笑った。
「神田の古本屋街にいる桐野が、目に浮かぶよ」
ありがたい言葉だった。
なのに、心春はすぐに頷けなかった。

「……少し、考えさせてください」
「もちろん。夏の間に、ゆっくり考えればいい」
⸻
職員室を出ると、廊下の熱気が制服にまとわりついた。
ドアが閉まりきる前に、次の面談の声が聞こえてくる。

「いや、だから文化構想学部行きたいんですって!」
思わず、足が止まった。
(……え?)
「ひとつのこと深掘りするより、色んなもん混ぜた方がおもろいやないですか!文学も笑いも一緒にやりたいんです!」
先生の困った声。
「いや、それは分かるけどね……推薦枠の話とは少し違って──」
「ちゃいますって!枠とかやなくて、方向の話してるんです!」
一拍。
「“何になるか”より、“どう混ざるか”の方が大事やと思うんですけど!」
沈黙。
心春は、その場から動けなかった。
(……混ざる?)

さっき聞いた言葉。
横断的。
自由。
でも――
(……違う)
そう思った。
自分が求めているのは、混ざる場所じゃない。
沈んでいく場所だ。
もう一度、扉を見る。
中の声は、まだ続いている。
顔は見えない。
誰かも分からない。
ただ一つだけ、残った。
(……なんなんだろう、あの人)
⸻
鞄の中の文庫本を、ふと思い出す。

好きな作家の名前。
小川洋子。
俵万智。
三浦しをん。
名前を読むたびに、同じ場所に繋がっている気がした。
言葉の城。
……それと、阿刀田高。
なぜかその名前だけ、少し違うところで引っかかる。
読み終わったあと、少しだけ困る。
(……なんでだろう)
答えは出ないまま、ページだけが進む。
⸻
窓の外に、神戸の街が広がっていた。
山の緑。
坂道の影。
遠くにひらく港の光。
大倉山の図書館。
三宮センター街のざわめき。
何気ない放課後。
好きなものが、多すぎる。
言葉の城は、たしかに憧れだった。
でも、そこへ行くには、ここを離れなければならない。
心春は、制服のポケットの中で、そっと指を組んだ。
「……ほんとうに、これでいいのかな」
蝉の声だけが、返事のように鳴いていた。

<続く>
あとがき|原点を、もう一度

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
「透明ティラミス」として書いてきた作品たちのビューが、もうすぐ合計10,000回に届きそうです。
ひとつひとつは小さな投稿です。
それでも、その一つひとつを誰かが開いてくれて、読んでくれて、ときどき笑ってくれて、ここまで来ました。
本当にありがとうございます。
今回、第1章を作り直したのは、ただ過去の文章を整えたかったからではありません。
心春とつむぎが、どう出会ったのか。
なぜ「文字」と「笑い」が並ぶことになったのか。
この二人は、どこから始まったのか。
それを、今の自分の目でもう一度見直したくなりました。
最初に書いたときには見えていなかったものが、今は少しだけ見えています。
逆に、最初にしかなかった熱もあります。
だから、消すのではなく、
もう一度、火を入れるような気持ちで書き直しました。
心春は、言葉の中に祈りを見つける子です。
つむぎは、そこにバナナの皮を置きにくる子です。
静かなものと、くだらないもの。
深いものと、笑ってしまうもの。
そのあいだにある地平線を、これからも書いていきたいと思っています。
10,000回の手前で、原点に戻れたことをうれしく思います。
読んでくださった皆さんへ。
本当にありがとうございます。
ここからまた、
透明ティラミスを始めます。
