第一話「台所で祈る少女とバナナの皮でスベりたい少女(前編)」
🌸港の街と言葉の城

職員室の隅。
七月の午後の光が、窓辺にやさしく差し込んでいた。
「桐野──指定校推薦、君が本当に望むなら、僕は君を推薦したい」
担任はそう言って、一枚のプリントを机に滑らせた。
「早稲田の第一文学部。……君の望んだ言葉の城だ」
リストの右端、「候補・評価A」の文字が、小さく光って見えた。
「確定じゃない。でも、現時点でのトップ候補は君だ。どうだい、目指してみるか?」
心春は、すぐには答えられなかった。
嬉しいはずなのに、胸の奥に、何かが引っかかっていた。
担任は、微笑みながら言った。
「神田の古本屋街に籠る君が目に浮かぶ。……羨ましいよ」
──その優しさがありがたくて、むず痒くもあって…。
でも、心春には気になることがあった。
「…先生、ありがとうございます。もう少し、考えさせてくれませんか」
「もちろん。焦らなくていいよ。夏の間に、ちょっと、考えておいて」
「……はい」
帰り道。制服のポケットの中で、指先だけがそっと組まれていた。
心春は、鞄の中の文庫本を思い出す。
そして──
いつからか、自分が“物語のあと”に見るようになったものを。
読み終えた本の、作者の名前の下。
そこに添えられた、小さな文字。
「早稲田大学 第一文学部」
中原中也。吉本ばなな。谷川俊太郎。小川洋子。村上春樹。川上未映子……
私の好きな人たちは、みんな、あそこにいた。
まるで、“言葉の密度”が違う空気の中で。
“言葉の城”──
そこに行けば、私の“言葉”も、救われる気がしていた。
けれど、ふと足が止まる。
大倉山の図書館の午後。
家族と見た、六甲山からの街並み。
三宮センター街、友達と過ごした何気ない放課後。
神戸と、離れるのかもしれない。
「……ほんとうに、これで、いいのかな」
その呟きは、蝉の声に溶けるように、夏の空に消えていった。
🌸神様とばなな
〜いつもの図書室で

静かな午後だった。
教室の喧騒を抜けて、校舎の一番奥にある図書室へ向かうと、空調の音とページをめくる気配だけが、ひっそりと世界を満たしていた。
誰もいない。窓辺の席には光が落ちて、机の木目がぼんやりとあたたかかった。
桐野心春は、迷わず文芸コーナーに向かう。
その棚の中ほど──手にとったのは、吉本ばななの『キッチン』だった。
名前は、何度も目にしていた。
でも、読むのは、初めてだった。
ページをめくる。文体は、思っていたよりも軽やかで、素朴だった。
けれど、淡い言葉の端々に、ずっと押し込めてきた感情がじんわりと滲んでくるような、不思議な温度があった。
──そして、ふいに出会ってしまった。
「神様、どうか、生きていけますように。」
その一文に、心が止まった。
……誰の声だろう、と思った。
誰かの祈り? 叫び?
でも、どれでもなくて──これは、自分の中から出てきた言葉のようだった。
心春は、しばらくそのページをめくることができなかった。
指先が、本の角で止まり、視線だけがその一行に留まり続ける。
今までの、当たり前だった日々。
未来に憧れてばかりで、足元のぬくもりに気づけてなかった。
ずっと、そばにあった喪失の予感。目を逸らして、見ないふりをしてた。
大学へ行くということ。
家族から離れること。
“ひとりになる”ということ。
言葉にならない不安。
それでも、言葉にしないと、取りこぼしてしまいそうな輪郭。
「……生きていけますように。」
心の中で、もう一度だけ繰り返した。
それは誰にも聞かれない、声にならない声だった。
🌸ことばのお城に差し込む光

教室の手前、掲示板の前で何人かの生徒が立ち止まっていた。
視線の先には、張り出されたばかりの期末テスト順位表。
赤ペンで「国語」と書かれた紙の前に、心春も自然と足を止める。
──一番上の名前が、違っていた。
1位 白井つむぎ 97点
2位 桐野心春 95点
「……え?」
小さく息を呑む。
思わず、何度か目をこする。
でも、順位は変わらない。
(白井つむぎ……?)
その名前に、記憶の照準が合う。
──教卓で笑いを取っていた、あの子だ。
漫談の人。おもしろい“だけ”の人。
まさか、国語で自分を上回るなんて。
「心春じゃなかったんだ」「うちのクラスの子?」「あの面白い子やろ?」
周囲の声が、やけに耳に残る。
自分でも驚いていた。
悔しさというより、“予想外”だった。
ずっと、国語は得意だった。
誰にも負けたことがなかった。
言葉が、自分の武器だと信じていた。
「白井……つむぎさん……」
名前を口の中で転がす。
音にすると、やわらかくて不思議と覚えやすい。
そのときだった。
教室の中から、また笑い声が響いてきた。
あの声だ。あの空気だ。
心春は静かに視線を掲示板から外し、
胸の奥で“何か”がそっと動くのを感じた。
──見なきゃいけない。あの人を。
⸻
(言葉の世界で、私はずっとひとりだった。
でも、今、はじめて──誰かが隣に来た気がする)
🎤漫談「勉強って、何のため?」

「どーもー!人生三回目、悟った気分の白井つぐみです!
昼休み、暇やったら、ちょっと聞いてって~」
手をあげて、前に立つ。教卓を舞台みたいに使い始める。
先生も不在、クラスの空気は「また始まったか」と、ちょっとざわつき。
「いやな、うち最近、よう考えるねん。
“なんで、勉強すんの?”って」
教科書をペラペラめくるポーズ。
「テストのため? 将来のため? 偉い人になるため?」
間。
「……ちゃうやろ。
うち、昨日気づいたんよ。
勉強ってな、“親を安心させるため”やわ!」
ドッ。
「違う? 英単語10個覚えたとき、“将来役立つわ~”ちゃうねん。
おかんの機嫌がようなるねん!蹴飛ばされてたんが、夜の唐揚げ2個増量や!」
間を置いて、にやり。
「……でも、それだけのためやったら、続かへんやん? 」
少し声を落とす。
「だから、うちは“遊び”に変えることにした。
テスト、ネタ作りや思てやることにした。
数学は考え方、
英語は合言葉
国語は……笑いの種や!」
拍手と笑い。
「漢文の“孟子”とか最高やで?
“魚を与えるより、釣り方教えよ”って。
それな。ええこと言うてる~!ってなるけど、
腹減ってるときに言われたら、殺意湧くやつな。
お前の釣った魚よこせ!
俺のものは俺のもの、
お前のものは俺のものや!
ちなみに、うち、歌は上手いで。
余談やけど」
ちょっと溜める。
「でもな、そういう“怒り”すら、言葉で言えたら、ちょっと楽やねん。
知識があれば、
“クソが!”
のバリエーション、増えるやろ?
言葉に魂が乗りよるねん!」
(クスクス笑い)
⸻
「うちは頭ええんちゃう。
ただ、“しゃべるために、拾ってる”だけや」
間。
「……言葉、集めといて、困ることなんて、一個もない。
誰かの心をほどく瞬間に、いつか使えるかもしれんやろ」
真顔になる。
急に、教卓が舞台じゃなくなる。
「そんとき、“勉強しといてよかった”って、思うんかもな」
一拍、空白。
「──知らんけど!」
(教室、笑いと拍手)
「というわけで、
今日の漢文の小テスト、うちは孟子さんに釣り竿借りてきます!」
ぺこりと頭を下げて、笑いながら席に戻る。
その背中を、心春はただ見つめていた。
(……この人、ただのお笑いの子じゃない!)
笑いを道具にして、言葉を届けている。
私は、ただ守ることで精一杯だったのに。
……違う生き方をしてる。
🌸ゴトンと鳴った私の心

教室中に笑いがこだまするなか、つむぎは軽い足取りで席へ戻ってきた。
そのまま椅子に深く腰を落とすと、となりの机に視線が止まった。
「──ん?」
心春が膝に置いていた文庫本。
表紙には、優しい水色のタイトル。
『キッチン』
「……あ、それ泣いたわ」
つむぎが、ふいに言った。
心春は一瞬、聞き間違いかと思った。
まさかこの人から、そのタイトルが出てくるとは。
「……読んだんですか?」
「読んだで。うち、あの“神様、どうか、生きていけますように。”のとこ、撃ち抜かれたわ」
心春は、さらに驚いた。
つむぎの口から、まさに自分が心を奪われた一節が出てくるなんて。
「……あれは、祈りの言葉だと思いました」
つむぎは、ほんの少しだけ首を傾けて笑った。
「うちはな、あれ、“自由の啖呵”やと思た」
心春の視線が止まる。
「…自由の啖呵?」
その言葉の意味を、聞こうとした瞬間──
「続きは今度の漫談でやな!」
つむぎがニヤニヤしながらそう言った。
数秒の沈黙のあと、つむぎは笑って言った。
「せやけど、“台所”ってええなぁ。
うち、冷蔵庫の中の音、好きやねん。
ゴトッ……って、夜中にだけ鳴るやつ。
なんか、可愛いない?
そう思うん、うちだけかな?
つむぎは片手をひらひらと振って、教室を出ていった。
心春は、不意に胸の奥があたたかくなるのを感じた。
後編へ続く
