掌編小説 「アンプの捨て方」
父が死んで三日目、私は川中でアンプを捨てることになった。
川中は、北東北のA県A市を流れる旭川の西岸にひろがる歓楽街である。戦後しばらくは東北最大規模ともいわれ、料亭、キャバレー、映画館、芸者置屋が細い通りにひしめいていた。
いま残っているのは、低い雑居ビルと、川風に錆びた看板と、昔はすごかったという話ばかりだった。
それでも日が落ちれば灯りはついた。
酒を飲む人間がいて、酒を飲ませる人間がいた。夜が終われば、空き瓶と生ゴミと、昼間には見せられない顔が裏口から出された。
父の店は、その川中の外れにあった。
スナック・ルビー。
父は女の名前みたいで嫌だと言っていたが、前の経営者が残した看板を替える金が惜しく、そのまま三十二年使った。
父が死んだから店を閉めるのではない。
店を閉めることが決まってから、父が死んだのだ。
肝臓はずっと前から壊れていた。最後のひと月は、客に水割りを出してから、自分だけ厨房で吐いていたらしい。
大家との約束では、翌朝六時までに店を空にすることになっていた。
私は午後九時から、グラスを新聞紙で包み、ボトルを流しへ空け、椅子を外へ出した。
酒は混ざると、ひどく甘い匂いがした。
ウイスキー、焼酎、梅酒、名前のわからない茶色い酒。排水口から上がる腐った油の臭いと混じり、店全体が巨大な胃袋のようになった。
午前一時を過ぎても、川中はまだ営業していた。
ドアを開けるたび、笑い声と香水と焼き鳥の煙が入ってきた。黒いコートの男が酔客を呼び、薄いドレスの女が店から店へ走った。
そのたび私は、父がもうこの街にいないことを思い出した。
悲しいというほどではなかった。
ただ、父のいない川中は、父の死んだあとの身体に似ていた。
形は同じなのに、何にも応じない。
アンプはカウンターのいちばん奥にあった。
黒い木箱で、高さは膝ほど。中に大きなスピーカーが二つ入っている。四十キロ近くあった。
十七歳のとき、私は夏休みのアルバイト代を全部使って、それを買った。
大きい音さえ出せば、ここではない場所へ行けると思っていた。
高校を卒業し、東京へ出るとき、アンプは重いので置いていった。
父は二十五年間、それを店に置いていた。
上には灰皿と紙ナプキンと、爪楊枝の容器が載っていた。
アンプは楽器ではなく、低い棚になっていた。
午前一時半、佐伯が来た。
高校時代、私のバンドでドラムを叩いていた男である。いまは産業廃棄物の収集会社に勤めている。
紺色の作業着に防寒具を重ね、黒い帽子をかぶっていた。四十三歳になった佐伯は、十七歳のころより少し痩せ、ずっと猫背になっていた。
「葬式、行げねくて悪がった」
「仕事なら仕方ない」
「人の人生を運んでだのよ」
佐伯は店内を見回した。
そして、アンプを見た。
「まだあったのが」
「棚になってた」
「これを?」
「客が足を載せたりもしてたらしい」
佐伯はアンプの前にしゃがみ、前面の布を指で押した。
布には煙草の焦げ跡があり、隅には十七歳の私が白い塗料で描いた星が残っていた。
線は震え、五つの角の長さが全部違っていた。
「消さねがったんだな」
「気にしてなかっただけでしょ」
佐伯は立ち上がった。
「運ぶが」
左右の取っ手を持ち、三つ数えて持ち上げた。
上がらなかった。
「持ってる?」
「持ってる」
「そっち、床がら離れでねど」
「気持ちは離れてる」
「気持ちでゴミは運べねべ」
一度下ろした。
アンプの下から、煙草の吸い殻と百円玉が二枚出てきた。
佐伯が拾った。
「お、遺産」
「分けようか」
「税務署が面倒だがらな」
二度目は持ち上がった。
私たちはアンプを横向きにし、入口まで運んだ。
通らなかった。
父は十年ほど前、店のカウンターを作り直していた。通路が十五センチ狭くなっていた。
アンプは、店から出せない大きさになっていた。
「入れたあどで店を作り替えだのが」
佐伯が言った。
「そうみたいね」
「せば、どうやって出すつもりだったんだべな」
父は、出すつもりがなかったのかもしれない。
そう言いかけて、やめた。
父は先のことを考えない人だった。
店も、酒も、病気もそうだった。あとで困るとわかっていることを、あとで困ればいいという理由で続けた。
アンプも、ただ重かったのだろう。
重いものは、そこに置いておけば、置いた理由が生まれる。
佐伯は車から工具箱を持ってきた。
「ばらすしかねな」
電動ドライバーで背面の板を外した。
中には埃が積もり、二つのスピーカーが黙って並んでいた。配線の被覆は固くなり、金属には赤い錆が出ていた。
佐伯が指でコーンを押した。
「まだ鳴るがもしれねど」
「鳴らしてどうするのよ」
「鳴らしてがら捨てるだげよ」
「意味あるが?」
「意味のあるものだけ残してだら、この店には何もねぇべや」
カウンターの下から、古いギターが一本出てきた。
誰のものかはわからなかった。安い赤色のギターで、一本だけ弦が切れていた。ネックの裏に、油性ペンで「ナオ」と書いてあった。
父の客だったのかもしれない。
私はギターを持った。
弦は錆びていた。指で押さえると、ざらついた。
アンプをコンセントにつないだ。
スイッチを入れる。
低い唸りが店の床を這った。
「生ぎでるど」
佐伯が言った。
「電源だけだべ」
私は椅子に座り、五本の弦をだいたい合わせた。
最初に鳴らした音はひどかった。
低音は潰れ、高音は割れた。蛍光灯が震え、カウンターのグラスがかすかに鳴った。
それでも音は出た。
二十五年、灰皿を載せられ、酔客に蹴られ、父の煙草を吸い込みながら、アンプはまだ音を出した。
佐伯がカウンターを指で叩いた。
一定の拍子だった。
私は昔作った曲を弾いた。
題名はなかった。
四つのコードを繰り返すだけの曲だった。歌詞もあったはずだが、何ひとつ思い出せなかった。
手だけが覚えていた。
次にどこを押さえるか、頭より先に指が知っていた。
佐伯は二番で拍子を間違えた。
高校の文化祭でも、同じところで間違えた。
私は笑った。
音は大きくなった。
店が狭いため、音の逃げ場がなかった。壁と天井にぶつかり、カウンターの裏へ回り込み、空になった酒瓶を震わせた。
隣の壁を、三回叩かれた。
佐伯は構わずカウンターを叩いた。
私は最後の四小節を弾いた。
そのとき、アンプの奥で青い火花が散った。
音が裂けた。
焦げた埃の匂いが上がり、唸りが止まった。
店が急に広くなった。
「死んじまったな」
佐伯が言った。
「オメの曲、相当嫌だったんだべな」
アンプをばらした。
背面の板を外し、二つのスピーカーを取り出した。錆びたねじが一本だけ回らず、佐伯が金槌で木枠を割った。
鳴ると確かめたものを、私たちは壊した。
木が裂ける音は、さっきの演奏より乾いていた。
最後の板を外すとき、金具が滑り、私の右手を切った。
親指の付け根から血が出た。
傷は深くなかったが、血はよく出た。
床に三滴落ちた。
ドアが開いた。
隣の店の女が顔を出した。銀色のドレスの上に大きなパーカを着ていた。
「苦情が来てます」
「もう終わりました」
女は私の手を見た。
店へ戻り、氷の入った袋と白いタオルを持ってきた。
「これ、使ってください」
「すみません」
「何してたんですか」
「棚を捨ててました」
女は壊れたアンプを見た。
「棚にしては、うるさいですね」
それだけ言って戻っていった。
午前四時半、アンプは店の外へ出た。
箱を壊し、スピーカーを外せば、一つ一つはたいした重さではなかった。
川中は店じまいを始めていた。
看板の灯りが消え、女たちは高い靴からスニーカーへ履き替えた。寿司屋の裏口には生ゴミが積まれ、酔いつぶれた男がタクシーへ押し込まれていた。
表通りではまだ酒と香水の匂いがした。
一本裏へ入れば、油と吐瀉物と洗剤の匂いになった。
川から冷たい風が吹いた。
佐伯の収集車は通りの端に停めてあった。
荷台には、壊れた椅子、冷蔵庫、造花、店名の入った看板が積まれていた。
かつて誰かが金を払い、選び、運び込み、店の顔にしたものばかりだった。
いまはすべて、重量で区別されていた。
アンプの部品を荷台へ載せた。
最後に、白い星の描かれた前板が残った。
佐伯が持ち上げた。
「これだげ持って帰るが」
「いらね」
「本当に?」
「いらねってよ」
佐伯は前板を荷台へ放った。
白い星が上を向いた。
圧縮板が下りてきた。
木枠が折れた。
スピーカーの金属が曲がり、黒い布が裂けた。特別な音はしなかった。
機械が壊れる音だった。
白い星は、造花と冷蔵庫の間に消えた。
「おじさん、なして残してだんだべな」
佐伯が言った。
「重かったからでしょ」
「それだけが」
店へ戻った。
アンプのあった壁だけ、四角く白かった。
父が三十二年吸った煙草の煙も、そこには届いていなかった。
私は床の血を拭いた。
雑巾が薄く赤くなり、それから酒と脂の色になった。
白い四角には触れなかった。
午前六時、大家に鍵を渡した。
通りでは、瓶を積む音が続いていた。店の女たちが帰り、清掃員と配送業者が入ってきた。
