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文壇変態大全《現代継承篇》 ── 承認と晒しの快楽装置

SNSとは、近代文学の続編である。
スマホは懺悔室、投稿は鞭、そして「いいね」は麻薬。
我々は太宰と芥川の亡霊をまといながら、毎晩タイムラインで自己懺悔している。

漱石が原稿用紙で理性を叩いた様に、私たちはスマホ越しに自我を責めている。
承認と晒しが快楽に変わったこの時代、“文壇”はタイムラインに転生した。
我々は皆、現代のマゾヒスト文豪である。

📖文壇変態大全シリーズ
【前回】

日本文学=百年続く集団SMプレイ。
漱石は理性、芥川は神経、太宰は愛、鴎外は秩序、三島は肉体、川端は沈黙で己を責めた。
痛みを美に変える快楽の系譜の集大成。


序章|スマホという懺悔室

スマホを開く瞬間、それはもう祈りではない。
懺悔だ。
しかも、神ではなく、よく知らん人1,000人に対しての。

SNSとは「みんな、私の事をもっと見て!」を24時間配信する自虐サブスクである。
投稿とは祈りであり、告白であり、セルフ晒し刑。

文学者が原稿用紙で血を吐いていた時代が懐かしい。
今はみんな、画面で血を流している。
しかも無料で。

指先がガラスをなぞるたび、我々は“見られたい罪”を滑らせている。
夏目漱石が『こころ』で理性の鞭を自分に打ってた頃、我々は“ポスト”という名の鞭で自分を叩きながら「今日もポスト少なめで」と言い訳する。

違うのは、漱石の読者が文士だったのに対し、我々の読者は通勤電車の暇つぶし民である。

SNSとは、近代文学が進化して“誰でも作家になれる代わりに、誰も読まれなくなった世界”だ。
この手のひらサイズの装置の前で、我々は今日も懺悔する。
「誰か見てくれ…いや、見ないでくれ…でも見てくれ。」


第一章|「いいね」という名の麻薬

「いいね」とは、現代社会における合法的ドーパミン注射である。
押されるたびに脳が光り、押されないと魂が抜ける。
人は、他人の指先一つで天にも地にも落ちる。

かつて太宰治は「嫌われてもいいから見てほしい」と書いた。
現代人は「叩かれてもいいからバズりたい」と言う。

いいねは愛の鞭、バズは集団プレイ、炎上はフェスである。
沈黙は死、炎上は祭り。
我々はもはや“叩かれない日”に落ち着かない。

マゾヒズムの進化形 ── 承認欲求マゾである。
太宰がペンで心中したなら、我々はスマホで毎晩、「今日のオレ、何にもウケなかった」と自殺未遂している。

それでも翌朝には復活して、「おはよう世界」と呟く。
まるで死に損ねた太宰のゾンビ達だ。


第二章|タイムラインという文壇

昔の文壇には編集者がいて、原稿があって、締切があった。
今はリプ欄があって、誤字があって、引用リポストがある。

・編集者=フォロワー
・批評家=クソリプ
・文学賞=トレンド入り
・発禁処分=BAN

SNSとは、「太宰と芥川と三島が同時にログインしてる地獄」である。
漱石は理性に縛られ、太宰は愛に殴られ、芥川は神経で燃えた。
現代人は ── アルゴリズムに支配される。

今日の文学賞はトレンド入り、炎上は公開処刑、沈黙は死亡扱い。
それでも我々は書く。
なぜなら「沈黙」より「バズ」が怖いからだ。


第三章|自己開示というデジタル緊縛

「本音を言うのがかっこいい」
そう信じてSNSを始めた人たちは皆、だいたい3ヶ月で縄の快楽に気づく。

自己開示とは、優しげに見えて最高の緊縛プレイである。
共感という名の縄が、静かに身体を締め上げる。

フォロワーが増えるほど自由は減り、好感度が上がるほど言葉は鈍る。
共感は優しさではなく、笑顔で締める緊縛だ。

それでも我々は「いいね!してください」、「リポストしてください」、「フォローしてください」と呟く。
締められながら笑う、見事な“精神的Mプレイ”である。
それでも「自由です」と言い張るのが、現代の最も美しい縛り方だ。


第四章|AIという理性の鞭職人

AIが文章を書く様になった。
人は言う。「AIには心がない」。
だが思い出してほしい。
漱石もほぼAIだ。
感情をロジックで捏ね回し、鬱をエッセイに変換した彼こそ、初代ChatGPTである。

もし漱石がGPTを使っていたら『こころ』は1時間で完成していた。
もし太宰がXをやっていたら、「死にたい」が毎晩トレンド1位になっていただろう。

AIとは、近代文学の亡霊が作った最新型の拷問具。
冷静に見れば、我々がAIを使っているのではない。
AIが我々を観察日記にしているのだ。


第五章|承認社会のマゾ経済

バズれば快楽。
スベれば地獄。
SNSとは「承認と自己否定のルーレット」である。

現代の作家は全員、“フォロワーという上司”に見られながら原稿を書いている。
見られていないと不安になり、
見られすぎると死にたくなる。

もはや文学ではない。承認産業の副作用だ。
太宰治が「生きててすみません」と書いた時代よりも、我々の方がずっと太宰だ。
なぜなら、謝罪文を毎日ポストしてるから。


終章|文学はまだ死んでいない、ただログインしているだけだ

文学は滅びたのではない。
タイムラインに転生したのだ。
我々は漱石の理性をハッシュタグで、芥川の神経をリプ欄で、太宰の自虐を自撮りで再演している。

書く事はもはや芸術ではない。
今やそれはSNS生存ゲームの延命行為だ。
「いいね」を待ち、「リプ」を恐れ、「バズ」を夢見る。

痛みと笑いを使い分けながら、我々は今日もスマホで絶賛自己責め中である。
日本文学とは、痛みを美しく言い換える技術である。
SNSとは、それをリアルタイムで配信する装置である。

そして我々は皆、太宰治のコスプレをした現代マゾとして、今日もタイムラインで土下座している。
── それでも、文章を書き写真をSNSに投稿する。

誰かに見られたいからではなく、見られなくても、生きている証として。
つまり我々はまだ、書く事で祈っているのだ。

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