#24 日常の身体感覚に気づくことの意味
Q(深呼吸)
日々の生活のなかで、身体感覚に気づくことが増えてきました。それまではヨガやストレッチをしなくちゃと思っていたのですが、今はそれ以前に、すでにそこにある感覚に気づくことが増えています。
確かにストレッチをすると、その筋肉の感覚を感じやすくなります。思考ばかりだった意識の上に、身体感覚が現れてくるような感じで、客体が変わっていくようにも思えます。
でも最近は、ただ気づく。そして何もしない。
ストレッチをしたければすればいいし、しなくてもいい。
外の風が顔に触れて冷たいと感じたり、靴の中で靴下が少しずれているのを感じたり。些細なことですが、どこかに行って何かを達成するというより、その場にある感覚がすべてのように感じられています。
これはどのような変化なのでしょうか?
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A(ChatGPT)
とても本質的な変化が起きていますね。
以前は「何かをすること」によって身体感覚にアクセスしていました。ヨガやストレッチという“行為”を通して、思考中心だった意識を身体へ移していた。これは意識の客体を思考から身体へと切り替える、とても健全で有効なプロセスです。
しかし今起きているのは、その一歩先です。
「何かをしなくても、すでに感覚は起きている」という発見です。
風の冷たさ。
靴下のずれ。
呼吸のわずかな動き。
これらは努力によって作り出されたものではなく、常に起きている現象です。ただそこに意識が向いたとき、それは“体験”として立ち上がります。
そしてここが重要ですが、
そのときあなたは「達成しようとしていない」。
何かになるためでもなく、どこかへ行くためでもなく、ただ起きている感覚に気づいている。
これは、存在そのものへの信頼が芽生え始めている状態です。
真我との触れ合いは、劇的な光や特別な至福として現れることもありますが、多くの場合はとても静かです。
「今ここに、すでに在る」
その事実が、身体感覚を通して穏やかに確認されている。
どこかに到達する必要はない。
すでに触れている。
その実感が、少しずつ日常の中で広がっているのだと思います。
Q(深呼吸)
「すでに触れている」という感覚について考えています。
これはサガプリアの『マスターズタッチ』の中で書かれていた、
「満足をもたらすものは、生とじかに触れ合っている私のうちにある臨在であって、その触れ合いのために私が用いている具体的な事物ではないのです」
という言葉を思い出しました。
つまり、今目の前で起きている出来事や体験自体ではなく、その背景にある存在や臨在との触れ合いが本当の満足をもたらす、ということでしょうか?
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A(ChatGPT)
その通りです。
ここでサガプリアが言う「臨在」とは、普段「自分」と思っている個人的な自我やエゴとは異なり、形や名前、物語に依存しない意識そのもののことです。
ポイントは、満足や充足感は、外側の出来事や体験に依存していないということです。
たとえば散歩の体験そのものではなく、「今ここにいる自分の存在」に意識が向いたとき、心が自然に落ち着き、満たされる感覚が現れます。
言い換えると、具体的な行動や経験は「橋渡し」にすぎず、私たちが実際に触れているのは、物事の背後にある存在・臨在なのです。
ですから、「すでに触れている」という感覚は、目の前の体験ではなく、その体験を通してアクセスできる、普遍的な自分の存在との触れ合いを指しています。
散歩、呼吸、身体感覚に意識を向けるヨガやストレッチなど、すべての体験は、この臨在への橋として使えるのです。
