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観測者を名乗る理由

観測者を名乗る理由

俺は「六畳の観測者」と名乗っている。

なぜ「観測者」なのか。ずっと前に少し書いたことがあるが、読み返すと拙かった。だから、もう一度、ちゃんと書く。

これは俺の根っこの話だ。

感覚が、違った

子供の頃から、人と感覚が違うことに、違和感があった。

みんなとつらいと思う所が違う。みんなが平気な音が、刺さって痛い。同じものを見ているはずなのに、俺が見ているものと、みんなが見ているものが、どうも違うらしい。

それを、はっきり理解していた。俺の感覚は、人と違う。

そして、その中で、俺はある確信を持って生きてきた。

――俺が観測したものだけが、正しい。

人がどう言おうと、世間がどう決めていようと、俺がこの目で見て、この体で感じたものだけが、俺にとっての事実だ。他人が「そんなことはない」と言っても、俺が感じたなら、それは在る。

世間的には、これを独我論というらしい。

だから、観測者だ

自分で観測して、自分で経験しないと、理解できない。

本で読んだだけの知識も、人から聞いた話も、俺の中では、まだ「知っている」にならない。この体を通していないものは、どうしても、他人事の輪郭のまま、指の間をすり抜けていく。

だから、俺は観測したい。

自分の目で見て、自分の体で感じて、それを言葉にして、はじめて俺のものになる。書くことが自己認識だというのも、突き詰めればここだ。俺は、観測してからでないと、何も掴めない。

観測者。それが、俺の名前になった。

生の観測に、近づきたい

そして、この独我論が、薬の話に繋がる。

薬を飲むと、俺の思考は変わる。前向きになる。

でも、それは、化学に整えられた観測だ。俺が自分の目で見たものじゃなく、錠剤が調整したレンズを通した景色だ。

観測者としての俺は、それが、どうしても納得できない。

俺は、生の観測がしたい。整えられる前の、剥き出しの世界を、剥き出しの俺で見たい。だから、薬をやめたいという話に繋がる。

観測者であることと、薬をやめたいことは、俺の中では、まったく同じ一本の線の上にある。

消えたい、でも死なない

そしてもう一つ、この独我論が作っているものがある。

俺は、消えたくなることが、よくある。

この現実から、消えてしまいたいと思う。ふっと、いなくなりたくなる。

でも、死にたいとは、ならない。

理由は、単純だ。死んだら、観測が終わってしまうからだ。

俺が死ねば、俺の観測は終わる。そして俺は、どこかで本気で思っている。俺が死んだら、この世界も終わるのだと。俺が観測しているから、この世界は在る。俺が消えれば、世界も消える。

だから、死ねない。

ずいぶん単純な理屈だ。でも、俺の中では、とても強い。この理屈が、俺を、ここに留めている。

観測を続けたい。その一心が、俺を生かしている。

見続けるために

俺は、俺の観測だけを信じて生きてきた。

その頑固さが、俺を人から遠ざけたことも、あるだろう。でも同時に、その頑固さが、俺をここに留めてもいる。書くことも、薬のことも、消えたさの中で死なないことも、全部、同じ一本の線の上にある。

――僕は、僕が見ているものだけを、信じている。

だから、見続けるために、俺はここにいる。

観測者として、今日も、この六畳から世界を見ている。

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はる|六畳の観測者 コーヒー代にします。 あ、溜まったら焼肉に行かせてください....!!