仁徳天皇の逸話から伝わる「日本の心」 【国史教科書】応援その31
◯日本にある世界最大のお墓
5世紀になると、前方後円墳が最も巨大化し、その築造地も大和から河内に移動します。その最たるものが、仁徳天皇陵です。これは、お墓として、世界最大の面積を誇ります。
◯「聖帝」として歴代天皇が模範とした仁徳天皇
その仁徳天皇には、日本書紀に次のような逸話があります。
少し、長いですが、令和書籍の国史教科書の記述を引用します。
仁徳天皇が高台からご覧になり、人家から煙が立っていないことにお気づきになりました。民が貧しいから竈の煙も立ち上らないのではないかとご心配になった天皇は、「五穀が実らず、民は困窮しているんのだろう。都ですらこの様子であるから、地方はもっと困窮しているに違いない」とお嘆きになり「今から三年、すべての課税と役務を止めて、民の苦しみを和らげよ」と詔を発せられました。
その日以来、宮中では、倹約を徹底し、衣服と靴は擦り切れて破れるまで新調せず、食べ物は腐るまで捨てず、宮殿の垣が破れても造らず、屋根の芽が外れても葺き替えず、雨のたびに雨漏りして衣を濡らし、また部屋から星が見えるほどの有り様だったそうです。
そして、3年後には、民の生活は豊かになりました。天皇が高台にお上がりになると、しきりに炊煙が立ち上がているのが見えたのです。このとき、天皇は皇后に「天が君主を立てるのは、民のためであり、君にとっては民は根本である。だから、民が一人でも飢えるのならば、君は自らを責めなくてはならない」と仰せになりました。
その頃、諸国の民が、自分たちは豊かになったので、税を納めて宮殿を直そうとしましたが、天皇はこれをお許しになりませんでした。
その3年後、天皇はようやく課役を命ぜられました。すると、民たちは誰から催促されることもなく、昼夜を問わず力を出し合い、あっというまに新しい宮殿を立てたのでした。
以来、仁徳天皇は、聖帝と称えられ、歴代天皇が規範にすべき天皇像とされてきました。そしてその聖徳は、約1600年後の現在の皇室に受け継がれています。
私たちは、日本書紀の記述から、古代の日本人に仁徳天皇に対する見方を知ることができます。
この「民の竈」という逸話から、元ウクライナ大使の馬渕睦夫さんは、次のように述べられています。
仁徳天皇の「もし民が貧しければ、私が貧しい。もし民が豊かなら、私が豊かなのだ」という言葉こそ「自他不二」、自分と他者は二つではないという絶対平等の日本思想だといえましょう。
そこから人種平等、東亜解放、八紘一宇につながる共同意識が生まれました。とうぜん奴隷制は生れませんでした。
日本人の中には、自分たちだけがいい思いをしていると、何か申し訳ないと感じる人がいると思います。
例えば、大震災が発生すると、世界の被災地では、食料の奪い合いとなるようですが、日本の場合は、利他の精神(自他不二の精神)が働き、被災している中でも、より食料が必要な人のところへ、食料が行き渡ったりします。
日本人とは、何か。
現代につながる日本の精神とは何か。
なぜ、祖先である日本人は、あのような歴史的な決断をしたのか。
今後、日本人は、何を目指して、どのように生きればいいのか。
これらを考える時、この聖帝と呼ばれた仁徳天皇の民の竈の逸話を知っていると、その答えが見えてくるのかもしれません。
なお、この逸話ですが、人によっては、創作ではないのかと疑う人もいるかもしれません。
しかし、仁徳天皇のお墓の大きさは、減税に対する民の感謝の気持ちが込められているように、私には思えます。
旧約聖書などの他の神話には、王が自らの生活を質素にして、民を救ったというエピソードはありません。
民の竈の話は、多くの日本人に知ってもらいたい話です。
この逸話を掲載した、国史教科書に敬意を評します。
