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【エッセイ】別れた後に聴けなくなる曲がある理由

別れたあとに、聴けなくなる曲がある。

理由を訊かれても、うまく言葉にならない。特定のフレーズが刺さるわけでもない。メロディが嫌いになったわけでもない。ただ、聴こえた瞬間に身体が拒む。なぜだろう。

その「聴けない」に、名前をつけてみたい。名前がつけば、「いつか聴ける日」の輪郭も、少しだけ描き直せる気がする。


イントロの一音で、身体が先に反応する

カフェで、電車のホームで、誰かの車の窓から——ふと、あの曲が聴こえてくる。

ギターの一音で足が止まる人もいれば、ストリングスの立ち上がりで息が詰まる人もいる。でも共通しているのは、考えるより先に——身体のどこかが反応していること。

ただ、曲の内容を思い出してつらくなるわけじゃない。音色、リバーブのかかり方、ドラムのハットの開き方——曲が展開する前の段階で、もう身体は「あの時間」を思い出しかけている。

写真は意識を通って戻ってくる。見て、認識して、思い出す。だから少しだけ距離がある。でも曲は身体に直接届く。考えるより先に、心拍も呼吸も持っていかれる。だから写真より深く、「あの頃」を呼び戻してしまう。


曲は「あの日の体温」を丸ごと抱えている

曲が呼び戻すのは、出来事じゃない。

歌詞でもメロディでもない。その曲を聴いていた時の気温、光、匂い、隣にいた人との距離感——言葉にすらしなかった身体の感覚が、曲の中にまるごと保存されている。

だから「思い出す」のではなく「戻される」。

曲を再生すると、脳が出来事を検索するのではなく、身体がその時間に帰ってしまう。あの季節、あの気温、あの距離感の中にいた自分に、問答無用で巻き戻される。

曲は記憶の器として、あまりに優秀すぎるのだ。聴こえるたびに、過去の身体感覚がそのまま蘇ってくる。

イントロが耳に入った瞬間、それは映画のカチンコのようなものだ。
「はい、回して」の合図で、終わったはずの二人の時間が勝手に再生される。


曲が鳴ると、「撮り直し」が始まる

二人でよく聴いていた曲。ドライブのプレイリストに入っていた曲。あの夜、部屋で流れていた曲。

こういう曲が不意に鳴ると、あの時の会話、あの時の表情、あの時の空気が戻ってくる。そしてそのあとに、必ず「もしも」が始まる。あの時こう言えば。あの日会いに行っていれば。あの一言を飲み込まなければ。

頭の中で何度も場面を巻き戻して、台詞を変えて、選択を変えて、違う結末にたどり着こうとする。でも何度やっても、同じところで終わる。

思い当たる曲が、ひとつはあると思う。

厄介なのは、再生されるのが痛い場面ではないことだ。別れ際の言葉ではなく、笑っていた夜が戻ってくる。何でもない会話。何でもなかった帰り道。そういう場面ほど、どんどん鮮やかになっていく。

良かった記憶ほど、鮮度が上がる。そしてその鮮やかさと今の現実との距離が、いちばん残酷だ。

もう撮り直しはできない。それなのに、曲が鳴るたびに「もう一回」が始まってしまう。


「聴ける日」が来たら、泣き方が変わっている

いつか、その曲を聴ける日が来る。

でもそれは「平気になった」とか「忘れた」という意味ではない。

聴けるようになるのは、「撮り直したい」が「これはこれで、一本の映画だった」に変わった時だ。

そこにたどり着く道は、ひとつじゃない。新しい出会いかもしれないし、日々の生活が少しずつ曲の重心を押し戻すのかもしれない。はっきりしたきっかけがないまま、ある日ふと気づくこともある。

でも共通しているのは、頭より先に身体のほうが降りる瞬間があるということだ。「この映画は、こう終わるものだったんだ」と。

それが起きた時、曲の中心にいた人が変わっている。「あの人との曲」だったものが、「あの時代の自分がいた場所の記録」になる。

同じイントロで泣かなくなったら勝ち、ではない。泣いてもいい。ただ、泣き方が変わる。

かつては「戻りたい」と泣いていたのが、「あの時間は確かにあった」と泣くようになる。

先日、この感覚について短い物語を一本書いた。

レコード屋で「あの曲」がかかった日のことを書いた小説だ。もし同じ温度が気になるなら、読んでみてほしい。


今、聴けなくなっている曲の名前を、心の中で思い浮かべてみてほしい。再生しなくていい。名前を思い浮かべるだけで、その曲との距離が少しだけ測れる。


【短編読切】リテイク


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音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。

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