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【短編読切】完璧な選曲

金曜日の午後9時。

部下たちとの会食を「次の予定がある」と切り上げて、俺は裏通りのバーに滑り込んだ。来週には相談役就任が正式発表される。

55歳。実権を手放す名誉職への移行。早期退任とも言えるが、体面は保てる。

バー「Time Capsule」は、2040年代には珍しい、紙のコースターを使う店だ。カウンターの隅に、旧式のMemory Jukeboxが埃を被っている。

「まだ動くんですか、それ」
「ええ、ただ最近エラーが多くて」

バーテンダーが苦笑いを浮かべた。手をかざすと、青白い光が指先を走査する。画面に文字が浮かぶ。

『あなたの最高の一日:2025年10月17日』

息が止まった。

その日は、俺が彼女との約束を破って外資系企業の最終面接に行った日だ。あの選択が、今の地位への第一歩だった。
なぜそれが最高の一日?

知らない曲名が表示される。「Orbital Resonance」
アーティスト名も、リリース年も、何も表示されない。ただ曲名だけ。

指が勝手に選曲ボタンを押していた。

イントロが流れ始めた瞬間、視界が滲んだ。聴いたことのない、でもどこか懐かしい旋律。


2025年10月17日。
目の前に、同じバーのカウンターがある。だが装飾が違う。まだ改装前だ。
そして、35歳の俺がそこにいた。向かいには、彼女が座っている。

「面接、途中で抜けてきた」

若い俺が言った。彼女の目が見開かれる。

「本当に? あんなに準備してたのに」
「君との約束の方が大事だと、やっと分かった」

彼女の目に涙が浮かぶ。それは悲しみではなく、安堵の涙だった。

「私も決めた。会社辞める。一緒に始めよう。あの小さな街で」
「カフェだっけ。本当にやるのか」
「やるよ。二人なら、きっと」

若い俺と彼女は立ち上がり、ジュークボックスに向かった。二人で選曲画面を覗き込む。彼女が指差す。
「Orbital Resonance、これ聴きたい」
「ああ、いい曲だよな」
当たり前のように、その曲がそこにあった。この世界では。

Memory Jukeboxの隅に、小さな文字が表示されていた。

『この選択の結果』
『2045年時点』
『年収:420万円(個人)』
『資産:築40年店舗兼住宅』
『家族構成:配偶者1名』
『幸福度:測定限界エラー』

俺は、透明な観察者として、選ばなかった世界の自分を見ていた。

二人はカウンターに戻り、安いビールで乾杯した。

「30年後も、こうしてられるかな」

彼女が言う。若い俺が答える。

「きっと、小さな店の頑固な老夫婦になってる」


バーを出た二人を、俺は追った。いや、追うという意識すらなく、引き寄せられた。
場末の中華料理屋。赤いビニールの座席。若い俺と彼女が、餃子を分け合っている。

「子供ができたら、店はどうする?」
「バイトを雇えばいい。それか、子供が手伝える歳まで頑張る」

彼女が笑う。その笑顔を、俺は20年間、一度も思い出さなかった。いや、思い出さないように生きてきた。

Memory Jukeboxが、脳内に直接データを送り込んでくる。
実際の2045年の俺:
年収4200万円(ストックオプション含む)
都心のタワーマンション最上階
離婚歴2回
息子と娘、それぞれ別の母親、年に一度会うかどうか

そして、選ばなかった20年間の断片が、走馬灯のように流れる。

2028年:小さなカフェの開店。常連客ゼロからのスタート
2032年:地元誌の特集「愛される店」に選ばれた記事
2035年:町内会からの表彰状
2040年:水晶婚式。店でささやかなパーティー
2043年:彼女が倒れる。入院。
2044年:病床で手を握る。「ありがとう」と彼女
2045年:一人で店を続ける俺

中華屋で、彼女がふと言った。

「もしあなたが面接を選んでたら、私たち、どうなってたかな」

若い俺が箸を止める。

「そんな『もしも』は考えない。今がすべてだ」

彼女が頷く。

でも俺は知っている。
実際の2025年、俺は面接を選んだ。
彼女は一人で待ち続けた。
そして二度と会わなかった。

テーブルの上のスマホが震える。若い俺のものだ。
画面には、面接を受けた会社からの通知。
『最終面接欠席について』
若い俺は、通知を消去した。


曲が終わりに向かう。「Orbital Resonance」の最後のリフレイン。
視界が歪み始めた。2025年の風景が、水彩画が水に流れるように滲んでいく。

気がつくと、2045年のバーカウンターに座っていた。
バーテンダーが心配そうに覗き込んでいる。

「お客さん、顔色が真っ青ですよ。大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫です」

Memory Jukeboxの画面を見る。正常な表示に戻っていた。
『実際の最高の一日:該当なし』

ポケットに手を入れると、くしゃくしゃの紙が入っていた。あの世界のバーで、若い俺と彼女が書いた選曲リスト。
『カフェで流したい曲』というメモ書き。
一番上に「Orbital Resonance」とある。

スマホで検索をかける。
『該当する楽曲は見つかりませんでした』

当然だ。
あの曲は、存在しない世界でだけ流れている。
Memory Jukeboxのエラーが垣間見せた、並行世界のデータベース。
この世界には、そんな曲は最初から存在しない。

スマホが震える。秘書からのメッセージ。
『相談役就任パーティーの最終確認です』
『月曜日、帝国ホテル』
『参加者300名確定』

俺は返信した。
『了解』

もう一度Memory Jukeboxを見る。
『次回エラー発生予測:不明』

他の誰かのために、このエラーが起きることを願った。選ばなかった人生の重さを、知る必要がある人は、きっと他にもいる。


バーを出た。
11月の風が頬を撫でる。2045年の東京は、ネオンすら環境配慮型になった。

スマホを開く。
待受画面はデフォルトの幾何学模様。
誰かと撮った写真を設定する理由も相手もいない。

通知が並ぶ。
秘書からの確認事項。
弁護士からの財産管理報告。
誰一人、個人的なメッセージはない。

連絡先を開く。
検索窓に、あの人の名前を入れかける。
だが指が止まった。名前を、思い出せない。

いや、違う。
20年前、面接の帰り道に、連絡先ごと消去したのだ。未練を断つために。

空を見上げる。
星は見えない。
光害対策をしても、東京の空に星は戻らない。

あの世界の俺は今頃、小さな店で皿を洗っているだろう。
一人で。
彼女の分も。

振り返ると、Time Capsuleの窓から新しい音楽が漏れていた。
誰かがMemory Jukeboxを使っている。
その人の「最高の一日」か。
それとも「選ばなかった最高」か。

足を止めずに、俺は歩き続けた。
月曜日には、300人の前で挨拶をする。
相談役として。
選んだ人生の、次の章を始めるために。

【おしまい】


作者から一言

Memory Jukeboxのシステムエラーが、存在しない世界を垣間見せる——この設定を通じて、誰もが心のどこかに持つ「もし、あの時」という後悔を物語にしました。

主人公が見たのは、選ばなかった2025年の一日。そこで流れた「Orbital Resonance」は、この世界には存在しない曲。並行世界のジュークボックスにだけ収められた、幻の旋律です。

成功と引き換えに手放した幸福の重さを、55歳になって初めて知る残酷さ。彼女の名前すら自ら消去した過去は、もう取り戻せません。

あなたの「選ばなかった人生」では、どんな曲が流れているでしょうか。そして、それを聴く勇気はありますか。



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音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。