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【鳴らない時間①】数える

指揮者の腕が上がる。

下りる。弦が動きだす。木管が乗り、金管が層を重ねていく。音はもう、ホールいっぱいに満ちている。天井の高いところまで、隙間なく。

私はまだ、何もしていない。

膝の上に手を置いて、座っている。最後列。木管の奏者たちの頭の、さらに後ろ。目の前に銅鑼ドラが吊られている。直径は私の上半身ほどあって、照明を鈍く返す。暗い金色。バチは脇に立てかけたまま、触れない。

開演の前に、面の中心を指の腹でそっと確かめた。それきり、手は離している。

今日も、鳴らすのは一度きりだ。

この曲のなかで、私の音はたった一打。それが来るまで、譜面のどこにも私の音符はない。休符だけが並んでいる。何ページも、ただ休符が続く。

譜面の上では、休符はただの記号だ。斜めの棒と、点。目で追っても、時間はひとつも減らない。

楽器は、鳴る前から鳴る用意のまま吊られている。私もそうだ。

弦の振動で、ホールの空気がかすかに張る。その張りのなかで、音を持たないのは私だけだ。

だから、数える。

ほかにやることがない。数えるしか、私には残されていない。

一。

最初の小節が、弦のうねりに乗って過ぎていく。

二。

まだ遠い。私の一打は、ずっと先にある。前のほうで、指揮者の肩がひとつ大きく息を吸うのが見える。客席は暗い。誰も私を見ていない。見るべき理由がない。

三。

両手は膝の上で動かない。動かす必要が、まだない。

四。

音は途切れない。私をのぞいた全員が、いま鳴らしている。私だけが、数えている。

五。六。

数は、口に出さない。喉も使わない。頭のなかで、ただ置いていくだけだ。積み木を、ひとつずつ。

七小節あたりで、いつも意識がほどける。数えながら、別のことを考えている。両方できる。むしろ、数えていないと別のことを考えられない。数が、手すりの代わりになる。

指揮者を見る。客席に背を向け、こちらを ── オーケストラ全体を ── 向いて立っている。遠いから、顔の細かいところまではわからない。見えるのは腕だ。右手の棒が拍を刻み、左手が宙で何かを撫でている。照明が、ときどき額の汗を光らせる。あの人は、全部の音を鳴らしている。腕で、肩で、呼吸で。一秒も止まらない。

私は、止まっている。

止まっている、というのは正しくない。聴いている。鳴らさないかわりに、ぜんぶ聴いている。弦の厚み、木管の細い線、金管が立ち上がるときの角度。音は私の身体を通り抜けて、後ろの壁にぶつかり、返ってくる。その返りまで、私は座って受けている。鳴らさない奏者にも、やることはある。

隣の奏者が、ティンパニの皮にそっと手のひらを当てた。出番が近いのだろう。彼の楽器は、曲のあちこちで鳴る。心臓のように、何度も打つ。私の楽器は、一度きりだ。

なぜ、これを選んだのか。

理由は、もう覚えていない。手が空いていたから、かもしれない。誰かが抜けて、後ろを埋める人間が要ったから。たぶん、その程度のことだった。それでも続けてきたのは、向いていたからだと思う。待つことに。

客席のどこかで、咳がひとつ。乾いた音。人は曲のあいだ、息を殺している。それでも、こらえきれずに漏れる。あの咳も、この曲の一部だ。譜面には書かれていない音。誰のものでもない、けれど確かにそこにある音。

二十。

いつのまにか、そこまで来ていた。途中が抜けている。八から十九までを、私はどこで数えたのか。覚えていない。数えたはずなのに、手元に残っていない。

時間は、そういうふうに過ぎる。数えても、残らない。残らないものを、それでも数える。

私の一打は、この曲の終わり近くにある。何百小節も先だ。それまで、私はここに在る。鳴らさないために在る、と言ってもいい。たった一度のために、鳴らさない時間をぜんぶ引き受けている。

割に合わない、と思ったことはある。長く待って、一打。報われるかどうかも、聴いている誰にもわからない。銅鑼が一度鳴ったところで、曲が変わるわけではない。指揮者がうなずくわけでもない。隣の奏者が驚くわけでもない。みな、そこに私の一打があることを、知っているだけだ。

それでも、私はここを動かない。

この楽器は、叩いた音がすぐには終わらない。一度ぶつければ、あとは長く尾を引く。手を離しても鳴りつづける。だから一打でいい。たった一度で、ずいぶん長いあいだ、鳴っている。鳴らしている時間より、鳴ったあとの時間のほうが、きっと長い。

そのことを、私はまだ、うまく言葉にできない。

三十。

数が進む。残りが、少しずつ減っていく。減っていく数を、私は減っていくとしか思えない。あと何小節、ではなく、あと何小節しかない、でもなく、ただ、減っていく。

そこから先は、速かった。

四十。五十。数が、急に軽くなる。さっきまであれほど動かなかったのに、今は指のあいだをこぼれ落ちていく。

私の出番が、近づいている。

撥を取る。木の柄が、思ったより冷たい。ずっと脇に立てかけていたから。手のなかで、重さを確かめる。重い。けれど、持てない重さではない。何百小節ものあいだ、私はこの重さを取りにいかなかった。

立ち上がる。銅鑼の正面に、まっすぐ向き合う。暗い金の面は、私を映さない。ただ、そこにある。鳴る準備のまま、ずっとそこにあった。

指揮者が、こちらを見た。

オーケストラの音が、薄くなっていく。弦が引いて、木管が退いて、音楽が、私の一打のために場所を空けはじめる。ホール全体が、ひとつの方向を向く。

残りは、数小節。

数えるのを、やめる。

もう数えなくていい。ここまで来れば、あとは身体が知っている。息を吸う。撥を、肩の高さまで上げる。面の中心を見る。中心の、さらに奥を見る。

指揮者の腕が、上がりきる。

そして、振り下ろされる。

打つ。

音が、ひろがる。

ひとつの打撃から生まれた音が、ホールの天井まで昇って、ゆっくり降りてくる。減っていく。けれど、消えない。鳴らしたあとも、まだ鳴っている。

撥を下ろす。もう、何もしない。私は、自分の鳴らした音が引いていくのを、聴いている。

数える。一。二。三。── 今度は、小節ではない。消えていく音を、数えている。どこまでが音で、どこからが沈黙なのか、その境い目を探すように。

四。五。

もう、聞こえない。それでも、終わった気がしない。

待っていたのは、これだったのかもしれない。鳴らす一瞬ではなく、鳴らしたあとの、この長い時間。

数えるのを、やめない。



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音影【音楽小説家】 人とAIの境界で物語を紡ぐ旅にお付き合いいただきありがとう。私の言葉があなたの心に響いたなら、チップが創作の新たな種となります。共に想像の先へ。