日本の英語教育 & 漢文訓読

日本人が明治以降、英語を「解読」し「習得」しようとする際、無意識のうちに援用したのが「漢文を訓読する」という高度な知的変換作業のテンプレートだった。
この事実は、日本の英語教育における最大の「罪」であり、同時にその限界を決定づけている要因であると言える。

1.漢文訓読の呪縛

○孤立語への不適切な適応
​かつて日本の知識人が、漢文(孤立語)を「返り点」や「送り仮名」を用いて、日本語の語順(膠着語的構造)へと強制的に変換し、理解した(ということにした)成功体験。
この「日本語による再構築」という成功体験が、英語という全く別の論理で動く言語に対して、何の違和感もなく投影されてしまった。

○英語を「直訳」の対象にする
漢文を読み下すように、英語の構造を無視し、日本語の文法(助詞で関係を規定する体系)に無理やり埋め込む。

○分類文法への固執
100年以上前の文法分類(「五文型」などに代表される、本来は言語学的に破綻しているにもかかわらず、便宜的でしかない枠組み)を、論理の真理であるかのように教えている。
​これは、/l/ の調音やストレスの物理的特性を理解するよりも、「日本語の語順に英語の単語を流し込む」という知的遊戯を優先していることに他ならない。

2.「不完全な理解」の再生産

​この構図の最も恐ろしい点は、その「教える側」自身が、英語の論理構造(SVや情報構造)を身体化しておらず、単に「古典的な分類文法」という先人が残した「翻訳のルール」を継承しているに過ぎないという点である。

○本質的な調音(身体知)の放棄
英語の音は「響き(Intonation)」として抽象化され、物理的な調音(Articulatory Phonetics)は「特殊な技能」として排除される。

​○分類文法という名の「逃げ道」
「この文は第何文型か」という分類は、論理的な思考を放棄し、記号的な処理で安易に正解に辿り着くための「隠れ蓑」となっている。

3.英語は日本語の延長か?

漢文訓読方式が根底にある日本の英語教育は、どんなに表層を変えようとも、例え、全て英語を使って教授しようとしても、外国語である英語を、あたかも日本語の延長であるかのように扱っているのではないか?
漢文訓読方式や分類文法を捨て、音声学と最新の言語学(記述文法)の成果を採り入れるべき時が来た…

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