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ぼじあにっき6 住んで3ヶ月だけど考える、あり方。

カンボジア生活。
日本と行ったり来たりを繰り返しながら、気付けばもうすぐ「暮らし」を始めてから4ヶ月が経とうとしている。
実際に「住む」ことはまだできていないのが現状ではあるけれど、なんとなく分かってきた。
色々回ってみたからこそ気付く、現地の良さと懸念点。
カンボジア。「途上」と言えど、整ってきている。
変わりゆくその中で、誰を相手に何をもって喜ばせるか。
どこへ行っても変わらない。
今できることを、今できるつながりの中から創っていく。単純に見えるそれを、積み上げていく。

たまにそれでも動きが鈍くなる。
悩むことも多いけれど、そういう時はそういう時もあるもんだと、本気で休むかインプットに徹する。
おかげで、なんとなく頭が冴えてきた気がする。
余白。空間。
沸き起こる突発的イメージをもとに、筆を動かす。
趣味と何が違うのかと問われることもしばしば。
まあ、同じ域なのかもしれない。
私の中で違うのは、覚悟。
それをやり続けるんだという、覚悟。

きっとまたここから悩むだろうなと思う。
正直まだ序章に過ぎない。
やりたいことも人間関係も、悩む要素ばかりの人生です。
でもその中で確かに生きていくために
やりたいことを芯もって実現していくために
やろう。後悔しないように。

見に行ってみた、岡崎幹二郎さんの作品。
抽象画も、テクスチャも
何を伝えるか
何を意義づけるか
わからせるか、投げつけるか
必ずしも誰もが分かるもので
なくていいのだと。
プロジェクトというのはそういうものでいいのだと。

自分が生きる意味。
生み出した作品が存在する意味。
色々と、意味について考える。

私にできることってなんだろう。
改めて考えると、正直わからなくなってきた。
「カンボジアのために」できることを考えるって、余所者の私には烏滸がましい気がしてしまって。
「自分のために」なら、決まっている。
ただそれが世のため人のために、価値を与えられるようなものになるのか。
それは不安。不確定。でもやりがいがある。だからやる。

支援とか、ソーシャルビジネスとか、まあそれはそれは、いろんなあり方を見てきた。
「貧しい子供のために」
「これをすると〇人の子供たちが助かります」
そんな言葉も何回も見てきたし、聞いてきた。
でも、住んでみて、そういう言葉を少しずつ疑い始めている。
まだ私は3ヵ月しかカンボジアに住んでいないけれど、農村も首都付近も、いろいろと見てきた(つもりだ)。もちろんまだまだ巡ったことがないところも山ほどある。
でも、少し見ただけでも感じる、イメージとの乖離。

「カンボジア=貧困=不幸せ」という方程式が、ゆっくり瓦解し壊れていく。
もともとNGOの一員として渡航した。その時は「かわいそう」とか、「何か自分がカンボジアに関わることで何か変わるんじゃないか」とか、いろいろなことを思った。
「支援」と聞けば、マザーテレサや葉田甲太さんなど、本当に偉大な方々が頭に浮かぶ。
施すとか、なんかそれが神格化されている気がしている。
確かに、誰かのために生きることは立派だ。
ちゃんと相手が明確化されていて、その人の困りごとを解決するために自分たちで動いているのは、具体的で綺麗に見える。
私もかつて、そこに関わりたかった。
正直に言えば、そこに関われば名声とか評価とか、色んなものがもらえるかもしれないとか、汚い考えも持っていた。
でも、旅を好きになって、言語も何もなくてどうしようもなくなって、その場にいる人たちと等身大で関わるうちに、それまで自然と相手を見下していたのかもしれないと感じるようになった。
「〇〇人だから」
「〇〇人のために」
そんなの烏滸がましい。
本当に「貧困=かわいそう」だろうか?

確かに内戦はあった。色々問題がある現状も変わらない。
それでも、カンボジアは変わっている。
なにもかも、変わっている。
そして日本にも問題は山ほどある。
でもそれは他の国にも同様、世界中に問題は溢れている。

今はもはや「支援」という言葉が問題視されるようになった。「持続可能」とか「SDGs」とかいう言葉も、グリーンウォッシングのせいで胡散臭い雰囲気が漂っている。
そして、最初はほとんど変換で出てこなかった「共創」ということばが色んなところで言われてきている。

幸せの価値観も、よくわからない。
お金があるのが幸せなのか。
少なくとも、お金がない中でも最高の笑顔の人たちで溢れかえるカンボジアという国では、「お金がある=幸せ」は成り立たないと私は思う。
幸せって、知らないということじゃないのか。
ブータンの幸福度が一気に落ちたのも、色んな人たちとの出会いがあり、情報が増え、視野が広くなったからなのかもしれないと。
人の介入、支援と呼んでいるそれも、ある意味で人の幸せや何か大切なものを奪いかねない。
現にカンボジアでも、与えられるのが当たり前という考え方が根付き始めてしまっているということもある。

じゃあ、そんな中で何をすべきなのか。
が、わからない。
正解もないし、人の見解による。
自分の感覚を信じるしかない。
そこにどういう人がどれほどの価値を感じるか、とかは未知数。

私は学びや繋がりを求め、人や環境に惹かれ、カンボジアに来た。
それは間違いではなかった、と心から言える。
しかし、そこから何ができるだろうか。
誰と、何を、どう「共創」していけるのか。
そして自分自身、何を与えられるようになるのだろうか。

わからない。だからこそ、
やってみたいを、やってみる。
そこには責任を持つ。
自信を持つ。
誇りを持つ。
自分らしさを維持する、というのは、結局そういうことな気がする。

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鹿島大貴 decky 「あと一歩」深掘るための余白に使わせてもらいます。

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