【せりふ三題噺】始発駅
女性と付き合うのはもちろん初めてじゃなかった。
だけど、ずっと一緒にいても飽きるどころか、もっとずっと一緒にいたくなる女性は初めてだった。
まるで、それまでの人生が彼女と会うためにあった、と思わせる人だった。
大学を卒業して彼女は地元の大手地銀に就職し、離れ離れになったが、毎週会うのが待ちきれず、僕の人生はまるで週末のつなぎ合わせでできている気がした。
三年後、結婚した。
ほとんど間髪入れずに子供ができた。
難産だった。
初めてこの手に抱いた時、訳も分からず涙が溢れ、初めて生まれてきてよかったと思った。
お金はなかった。
子供の二歳の誕生日にLEGOを買おうということになったが、本物ではなく、類似品の千円のものと千五百円のものを見比べて、30分もどっちにするかを二人で迷った。
「いつか、スーパーで値札を見ずに買い物出来るようになりたいね」と彼女は笑顔で言った。
スーパーのクリスマスツリーは、お世話にもロマンチックとは言えないものだった。
ポケットに入れたカイロで彼女の荒れた手を温めながら、必ず幸せにする、そう誓った。
僕は、仕事を頑張った。
そして、二十代最後の年にヨーロッパ駐在のポジションを得た。
生活はかなり向上した。
休みにはヨーロッパのあらゆるところに出かけた。大学の同級生たちからは羨ましがられるような生活を手に入れた。
息子は、かわいい顔だちに加え、とても愛嬌があった。プール教室では、女の子たちの人気を総取りしたうえに、そのお母さんたちからも大人気だった。
僕らは、まだまだ幸せになる途中だと信じて疑わなかった。
「家族を解散しましょう」
まるで、遠足の解散のように彼女は言った。
なぜそのようなことになったのか。
僕は、いつのまにか忙しさを誇りにしていた。
論理を家の中にも持ち込んでた。
だが、僕はそれ以上考える気にもならなかった。
ダイニングテーブルの上に広がった確定申告の書類と離婚届が酷く現実的であり、同時に非現実的に思えた。
カイロで温めた手の温もりも、迷った末買った千五百円のLEGOブロックも。彼女は一度も口にしなかった。
僕は、それらの日々を思い出すと過呼吸気味になる。隕石が落ちてくればいい。雷でもいい。そう思った。
久しぶりに夢で目が覚めた。
「どうしたの?泣いているの?」
ベッドの上で女は、僕の顔を抱きしめた。
あたたかい。
その胸には張りがあり、手は荒れていない。
カイロで温める必要もない手。
「なんで今日なんだろうね」
僕は呟いた。
女は首をかしげる。
「なにが?」
この子も、たぶんあんなふうに、いずれ僕の元を去るのだろう。
女はやがて眠りに落ちた。
僕はベッドから抜け、服を着る。
駅へ向かう。
始発駅のホームは、いつもより空いている。
電車が入ってくる。音だけが大きい。
その日、役所で戸籍証明を手に入れた。
彼女の名前がまだあった。
もちろん、息子の名も。
僕の人生の始発駅は、まだそこにあった。
僕は、しばらくそれを眺めた。
スマホが震えた。
『今夜も会える?』
一拍おいて、返信した。
『うん』
(了)
