去る者は追わず #アマノ文筆クラブ
約1000字・ショートショート
「もう顔も見たくない! それじゃあね!」
ドガン、と嵐のようにドアを鳴らして彼女は出て行った。
僕はソファに深く沈み込み、「去るものは追わず」を貫いた。
正確には、貫くことができた。
なぜなら、僕たちが付き合い始めた時に彼女に隠れて衝動買いした「オカエリナサイ装置」があるからだ。
この装置のコンセプトは至極シンプル。登録されたパートナーが部屋を去ってから正確に二時間後、半強制的に出発地点まで帰還させるという、別れを自動で回収するハイテク装置だ。
この装置がなければ、僕はどうしていただろう?
彼女が飛び出したエレベーターを追いかけ、階段を駆け下り、雨の中を走って、行きつけのカフェの前で彼女の腕を掴んだだろうか。
あるいは、土砂降りの歩道で立ち尽くし、別れの痛みを全身で味わっただろうか。
だが、今は違う。僕はソファから立ち上がる必要もない。別れた後の面倒な自己反省や、追いかけて謝罪するというプロセスから僕は解放された。
これこそ究極のエコでタイパ抜群な恋愛装置。
僕はスマホを手に取り、飼い猫のコロ助を抱き上げた。
二時間後、ピンポーンと能天気なチャイムが鳴った。
インターホンのモニターには、眠たそうな顔をした彼女が立っている。
髪は乱れ、さっきまでの激昂は嘘のように消えている。記憶もリセットされているのだ。
ガチャリ、とドアを開けた。
「あれ? 私、どうしてここに?」
これがオカエリナサイ装置の特性。物理的な追跡はしないが、記憶を一時的に混乱させ、あたかも最初から別れていなかったかのように戻ってくる。
僕はコロ助を抱きかかえたまま、いつも通り笑顔で応じる。
「おかえり。お腹すいてる? これからパスタ茹でるけど」
彼女はパァッと顔を輝かせた。
「食べる〜♪ 私、カルボナーラがいい」
「了解。ちょっと待ってて」
これが通算十回目の「おかえり」だった。
彼女がリビングに戻るのを見届け、僕は装置に「グッジョブ」と小さく声をかける。
コロ助が「僕もお腹すいた」と主張するようにニャアと鳴いた。
その声はどこか満ち足りている。餌は皿に盛られ、暖かい場所が保証されている。狩りなんてする必要がない。
鳴くだけで食事の心配のいらないコイツに、飢えを追い求める野生の情熱なんてあるのだろうか?
ふとそんなことを考えてしまう。
まるで、装置に追いかけることを奪われ、本能的な情熱を忘れてしまった僕みたいじゃないか。
なんてことを思いながら、僕はカルボナーラに使う生クリームのパックを開けた。

