丸刈りーだ
約3500字・ショートショート
すべての悲劇は、バリカンの一撃から始まった。
「ちょっと全体的にすいて、清潔感を出してください」
地元のうらぶれた商店街にある『理容ササキ』の革張り椅子に沈み込み、私は目を閉じた。店主の佐々木さん(御年八十二歳)の、丸刈り頭とプルプル震える手先には一抹の不安を覚えたが、老舗の技術を信じるほかなかった。
直後、私の無防備な後頭部に、重機が唸るような駆動音が響いた。
ぶううううぅぅぅん。
それは軽快なハサミの音ではない。鋭利な刃が地肌をゴリッと削り取る冷たい感触に、私は飛び上がった。
「あっ」
佐々木さんが小さく声を漏らした。その刹那、私の後頭部に冷徹な冬の北風が吹き抜け、ツンとした消毒液の匂いが鼻を突いた。恐る恐る鏡を凝視し、私は絶叫した。側頭部から後頭部にかけて、見事な「滑走路」が一枚、舗装されたばかりの美しさで開通していたのだ。
「すまん、アタッチメントを付け忘れた」
佐々木さんは悪びれもせず、職人の眼差しで言い放った。
「しかし安心しろ、信くん。男の髪は左右対称であってこそ美しい。今から全体をこの『ゼロミリ』に合わせる。これぞ伝統の、青刈りだ」
「待って。明日、大事なプレゼンが……!」
私の悲鳴は、八十馬力のバリカンの轟音に掻き消された。かくして私は、一切の迷いを削ぎ落とした完璧な球体――すなわち、丸刈りへと変貌を遂げた。
翌朝。鏡に映る我が頭部は、朝日を浴びて神々しく発光していた。撫でると、ジョリッ、と高級な紙やすりのような抵抗が手のひらを刺す。
異変は、通勤ラッシュの駅のホームで起きた。五月の爽やかな風が、生まれたての頭皮を撫でた瞬間だった。
『ああ、今日の晩御飯、肉じゃががいいなぁ』
「うおっ!?」
脳内に見知らぬ男の情けない声が爆音で鳴り響いた。驚いて見回すが、誰も口を開けていない。風がもう一吹きした。
『なんで私があいつの尻拭いを? 今すぐハゲろ』
今度は左に立つOLの声だ。上品にスマホを眺める彼女の脳内は、呪詛で満ち溢れていた。試しに頭に手を当てて風を遮ると、声は消える。手を離すと、再び人々の「心の声」が津波のように押し寄せる。
「……まさか」
髪という「最大の防音材」を失った私の頭皮は、周囲の電波を過剰に受信する超高性能アンテナと化していたのだ。
人間の最も深い場所に隠された「本音」を読み取る能力……。
この能力を使えば、営業成績ナンバーワンも夢じゃないのでは?
俗物的な野心に火がついた私は、その日のプレゼンで無双した。
「うむ、君の提案は一理あるがね……」
渋る専務の頭上から流れるエアコンの微風を頭皮に受け、『本当は良い提案だが、簡単に頷くと舐められる』という本音をキャッチした。彼の自尊心をくすぐる言葉を並べ立て、見事、大型契約をもぎ取った。
勝利の美酒は甘かった。しかし、暗転は唐突だった。
『あーあ、あのハゲのせいで俺の仕事が増えたじゃねぇか。死ねばいいのに』
会議室を出た途端、同僚たちの嫉妬、嘲笑、どろどろとした悪意が、剥き出しの頭皮から直接脳髄へと突き刺さった。耳を塞いでも無駄だった。腐った泥水のような感情が、私の精神を容赦なく削り取っていく。
「やめてくれ……!」
私はトイレの個室に逃げ込み、胃液を吐き戻した。口の中に広がる苦味。こんな能力、呪いでしかない。分厚い建前という髪の鎧で、早くこの頭を覆い隠さなければ。
退社後、私はすがる思いで『理容ササキ』の戸を叩いた。
「助けてください! 他人の悪意が流れ込んできて、頭が壊れそうです!」
佐々木さんはハサミを置き、深く、後悔を滲ませた息を吐いた。
「……覚醒してしまったか。他人の本音を読みとる能力。丸刈りのReader、名付けて、丸刈りーだ」
「カッコわりぃぃ!」
「笑い事ではない」
佐々木さんの目が、かつてなく真剣だった。彼は自身の青々とした頭を撫でた。
「実はワシも、『丸刈りーだ』継承者だ。昔、ワシはこの力で、うつ病を患っていた妻を救おうとした。だが、彼女の底知れぬ絶望に耐えきれず、逃げてしまったんだ……」
悲痛な沈黙が店内に落ちた。神様のように見えたこの老人も、取り返しのつかない過去を抱えたただの人間だったのだ。
「信くん、一つだけルールを教えておこう。丸刈りーだの能力が真の力を発揮するのは、『丸刈り同士』が触れ合った時だ。丸刈り同士の頭皮が接触すると、互いの魂が共鳴し、記憶や痛みを直接分け合うことができる」
「そんな能力、いりません。今すぐ育毛剤を!」
私が叫んだその時、店のガラス戸が鈍い音を立てて開いた。
「すみません……まだ、いけますか」
入ってきたのは、ヨレヨレのスーツを着た若い男だった。その頭は、自分で乱暴に刈り上げたような不揃いな丸刈りだった。
瞬間、店内にひどく冷たく、淀んだ川の底のような匂いの風が吹き込んだ。
私の頭皮が激しくスパークする。ジリジリとした火傷のような痛みが脳を突き刺し、男の記憶がフィルムのように流れ込んできた。
『こんな絵が売れるわけないだろ』と笑う画商。
『ごめんなさい』と去る恋人。
何十通もの不採用通知。
『もう、全部嫌だ。俺みたいな人間、生きてる価値なんて……』
男の名前は健太。彼はたった今、冷たい川に身を投げようとして死にきれず、ここに流れ着いたのだ。
あまりの絶望の重さに、私は息ができなくなり後ずさった。関わってはいけない。佐々木さんの奥さんのように、私まで壊れてしまう。
「信くん」
佐々木さんが、私の背中を力強く押した。
「君の出番だ」
私は健太の虚ろな目を見た。
くそ。こんなもの見せられて、見過ごせるわけないだろうが。
「あの、健太くん」
「え? なんで俺の名前を……」
驚く健太の前に、私は自分の完璧な青刈りを突き出した。
「私の頭に、君の頭をぶつけてくれ」
「は?」
「いいから」
私は健太の肩を掴み、強引に自分の頭部を接近させた。
カツン、と鈍い音がして、二人の丸刈りが接触した。
世界から音が消えた。私と健太の脳内で、記憶の大逆流が始まった。私の中に健太の身を切るような孤独が流れ込む。私は歯を食いしばり、痛みの通信ケーブルとなった頭皮を通じ、私の「泥臭い過去」を全力で注ぎ込んだ。
好きな人に「ごめん。顔がムリ。生理的にムリ」と振られて、土砂降りの中で叫んだ日。
契約書をシュレッダーにかけて、クビになりかけて土下座した日。
それでも翌日、安い牛丼の湯気にむせび泣きながら「美味い」と頬張った、みっともなくて愛おしい生きる喜び。
『……あはは、なんだこれ。この人の人生、俺よりずっとカッコ悪い』
健太の心の声が、微かに温度を持った。
『でも……必死に生きてるんだな』
二人の頭皮の間に、静電気のような熱が生まれた。頭を離したとき、健太の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。私はその涙のしょっぱさを、自分の舌先で感じた気がした。
「……ありがとうございます。なんか、急に……ハラがへりました」
健太は深く頭を下げ、夜の街へ歩き去った。その背中は真っ直ぐだった。
「見事だ、信くん」
佐々木さんが目を潤ませていた。私は自分の頭を撫でた。ジョリ、ジョリという感覚。他人の痛みに触れるのは恐ろしい。だが、この無防備な頭で誰かの絶望を分け合えるなら、悪くない。
「ササキさん。僕、決心しました。この能力とうまくつきあっていきます。……まぁ、髪が伸びるまでの間だけですけど」
私が笑うと、佐々木さんは哀愁を帯びた目で私を見た。
「そのことなんだが……」
「どうしました?」
「丸刈りーだの能力者には代償がある。この能力に目覚めると、毛根が完全に活動を停止するんだ。君の髪は、二度と生えてこない」
「……マジで?」
「マジで」
「うそおおおおおん!」
それから、数年の月日が流れた。
私は会社を辞め、『理容ササキ』の二代目としてハサミを握っている。私の頭は相変わらず、完璧に舗装された鏡面仕上げだ。
「マスター、どうしようもなく苦しくて……全部、刈ってください」
「分かりました。失礼しますね」
悲哀に満ちたサラリーマンの客に対し、私は微笑みながらバリカンを構えた。
私は防音材を失った代わりに、他者の声なき悲鳴を受け止める温かいアンテナを手に入れたのだ。
さあ、彼の心を軽くしてあげよう。
後頭部にバリカンを当てた瞬間、重機が唸るような音が響いた。
ぶううううぅぅぅん。
「あっ」
私は小さく声を漏らした。
「すいません。アタッチメントをつけ忘れました」
鏡の中の客が絶叫する。見事な滑走路が、見事に開通していた。
また一人、この街に丸刈りーだが誕生した瞬間だった。

