空にひらく小さなドア #3つのお題に空想のひらめきを
約1900字・ショートショート
地上三百メートル。そこは、街のざわめきが遠くへ消えて、まるでおもちゃのジオラマを見下ろしているような高さだ。
僕は、この巨大なビルの窓清掃員。
ゴンドラに揺られ、洗剤のまじった水をワイパーでシュッと切るたび、曇っていた世界がパッと明るく塗り替えられる。
「……なんだ、あれ?」
右手の動きを止めた。
春の澄みきった青空に、ポツンと「それ」が浮かんでいた。
どこにでもある、古びた木製のドアだ。
ペンキのはがれた茶色の扉が、重力なんて忘れたみたいにふわふわと漂っている。真鍮のノブは、太陽の光を反射してキラリと光っていた。
そっと近づくと、どこか懐かしい木の匂いがした。
僕はゴンドラから身を乗り出し、ドキドキしながらそのノブに手をかける。
カチャリ、と軽い音が響いて、ドアが開いた。
ドアの向こう側は、重力がなく、僕の体はふわりと宙に浮き上がった。
「おや、お客さんなんて珍しい。最近はドアを見つける人すらいなかったんだがね」
声のした方を見ると、雲の端っこに腰かけた、小さなおじいさんがいた。
「ここは『空想の物置き』だよ。君たちが大人になるにつれて、空に放り投げてしまった『忘れ物』を預かっている場所さ」
おじいさんが指をさした先を、巨大な影がゆっくりと通り過ぎた。
クジラだ。でも、図鑑のクジラとは全然違う。
体は空色のウロコで包まれ、尾びれを振るたびに、七色のキラキラした粉が魔法みたいに舞う。
クジラの背中には、ラッパを吹くウサギや太鼓をたたくキツネが乗って、楽しげな音楽を奏でていた。
「きれいだ……」
「そうだろう。でもね、もうすぐこの美しさは墜落してしまうんだ」
おじいさんは、足元にある瓶を見せてくれた。中には、真っ黒で重たそうな砂がたまっている。
「これは『下を向く心』のゴミだよ。みんながスマホばかり見て、空を見上げなくなると、このゴミがたまる。空想は、誰かに見てもらうことで浮いているんだ。誰にも思い出してもらえない夢は、やがて重くなって、消えてしまうんだよ」
遠くを見ると、ボロボロに崩れかけたお城や、翼がもげた竜が、力なく漂っていた。
「どうすれば、助けられますか?」
あのクジラたちが、アスファルトの地面に叩きつけられる姿を見たくなかった。
おじいさんはニヤリと笑った。
「簡単なことさ。みんなの視線を、もう一度上に向けさせればいいんだ」
次の日から、僕の「窓拭き大作戦」が始まった。
ビル全体の図面を広げ、太陽の角度を計算した。使うのは特別な機械じゃない。僕が毎日使っている水と洗剤、そして磨き上げる技術だ。
ビルの壁面にある数百枚のガラスを、ほんの少しずつ角度を変えて磨き上げる。
太陽の光が特定の場所で反射し、一箇所に集まるように。
一週間後の午後一時。太陽が計算通りの位置にきた時、事件は起きた。
ビルを見上げた人々が、一斉に息を呑んだ。
巨大なビルの真ん中に、光の穴が空いたのだ。
正確には、数百枚のガラスが反射した太陽の光が、ビルの真ん中で一点に重なり、そこだけが真っ白に発光したのだ。
まるで見えない巨人が、ビルに丸い穴をぶち抜いたかのように、都会のど真ん中に、光り輝くトンネルが出現した。
あまりの眩しさと不思議な光景に、人々はスマホをポケットにしまい、呆然と上を見上げていた。
再びドアを開けると、おじいさんが拍手をしてくれた。
「大成功だ。見てごらん、みんな元気を取り戻したよ」
お城はピカピカに輝き、竜は力強く羽ばたいている。
僕はその隅っこで、一つの小さな「塊」を見つけた。
粘土で作った、翼で空を飛ぶ車。
「これ……僕の夢だ」
触れた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「自分は何にだってなれる」と信じていたあの頃の気持ちが、指先から伝わってきた。
「さあ、戻りなさい。あんまり長くここにいると、君も空想の一部になっちゃうよ」
おじいさんに背中をポンと叩かれ、僕の意識は弾け飛んだ。
ハッと気づくと、僕は夕暮れのゴンドラの上にいた。
目の前には、ただの広い青空。
でも下を見ると、地上ではまだ何千人もの人が、顔を上げて空を見つめていた。
群衆の中に、一人の小さな女の子がいた。
女の子は、ただ一生懸命に背伸びをして、空を指差している。
その隣で、お母さんらしき人が、一緒に空を見上げて笑っていた。
「あ、クジラ……」
女の子の小さなつぶやきが、風に乗って僕の耳に届いた気がした。
僕は地上で空を見上げる親子に向かって、心の中で小さく手を振った。
世界は、まだ大丈夫だ。
僕が窓を磨くたび、空はもっとみんなの近くにやってくる。
さあ、次の窓を磨こう。
今度はもっと、光が透き通るように。

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