スノー・ホワイト・バズ #3つのお題に空想のひらめきを

約2000字・短編小説
八ヶ岳のさらに奥。地図からも、そして世界からも見放されたような雪山のど真ん中。
俺は、自分の吐き出す息の白さに、いよいよ死を覚悟していた。
「……まじかよ。冗談抜きで、死ぬって……」
ガチガチと鳴り止まない奥歯の音を聞きながら、膝まで埋まる雪を掻き分ける。
視界を塗り潰すホワイトアウトの向こうに、場違いなほど温かな、オレンジ色の光が滲んだ。
そこには、一軒のロッジが立っていた。
そして、その軒先には。
「……え?」
ライトアップされたかのような、幻想的な女性が一人、静かに佇んでいた。
透き通るような肌。現実味のない、白く輝く髪。吹雪のなかで彼女だけが、奇跡のような静謐を纏っている。
俺は、その横顔から目を離せなかった。
「あ、あの……すみません。遭難しかけてて。ってその前に、寒くないんですか?」
彼女は優雅に、まるで雪を操るかのような仕草で、長い指先を動かした。
「……静かに、人の子よ。この静寂こそが、わたしの魂の安らぎ。貴方もまた、白銀の闇に飲まれに来たのかしら?」
透き通るような声だった。けれど、俺は凍えそうな状況も忘れて、目の前の光景を凝視した。
一歩近づいて、気づく。
「……あの、ちょっといいですか。足元に、めちゃくちゃ長い延長コードが這ってますけど」
彼女の整った眉が、ピクリと動いた。
「……何のことかしら。これは、わたしの魔力の残滓よ。……ちょっと、そこ。画角に入るから、どいてくださる?」
「画角? あ、あそこにスマホ三脚がある。……自撮り中ですか!?」
「うるさいわね!」
彼女の口調から、さっきまでの神秘性が音を立てて崩れ去った。
「今、奇跡の一枚が撮れそうなのよ! この『儚げな私と雪の親和性』がバズれば、フォロワー十万達成なんだから!」
絶世の美女に見えた彼女は、必死な顔でスマホを凝視し、フィルターの数値を微調整している。
「いい? わたしたち雪女はね、冬しか活動できないの。この短期間で一年分の承認欲求を稼がなきゃいけないプレッシャーが、あんたにわかる?」
「知らないよ。雪女が承認欲求モンスターだとは思わなかった。……ま、そりゃそうか。誰かに見られなきゃ、存在を証明できないもんな」
ふと漏らした俺の言葉に、彼女はハッとしたように指を止めた。
「存在を証明? そこまで深くは、考えてなかったけど」
「考えてないのかよ」
「ねぇ。わたし、きれい?」
「それ、口裂け女のフレーズじゃ……」
「いいから答えて」
上目遣いで問う彼女の瞳は、群青の海のように深く、俺の心を吸い込む。そこには、剥き出しの不安が映っていた。
「……まあ、黙ってれば、絶世の美女に見えなくもないかな」
彼女は、クスッと悪戯っぽく笑った。その瞬間、張り詰めていた空気が、春を待つ雪解けのように緩んだ。
「じゃあ、せっかくだから手伝って。ちょっと、この辺から煽りで撮ってよ」
それから数時間。俺は極寒のなか、彼女のために三脚を持ち、レフ板代わりの発泡スチロールを掲げさせられた。
「あーもー、角度が悪い!」
「うるせぇ!指が凍えて動かないんだよ!」
文句を言い合いながらも、気づけば二人の距離は、凍える夜を忘れるほど近づいていた。
胸の奥から沸き上がる熱が、いつの間にか、寒さをかき消していた。
翌朝。
抜けるような青空の下、俺は下山の準備を整えていた。
「見て! 昨日の写真、爆発的に拡散されてるわ。『#雪女と遭難なう』がトレンド入りよ!」
彼女が差し出したスマホの画面には、幻想的な彼女の姿……の端に、不器用に写り込んだ、俺の右手があった。
彼女の冷え切った頬を、温めるように包み込んだ、俺の無骨な手だ。
「……おい、これ。俺の手、ガッツリ写ってるじゃねえか」
「わざとよ、馬鹿。この『匂わせ』がバズる起爆剤なの。『美しすぎる雪女に恋人!? ガチ恋勢が敗北!』って大騒ぎしてるわ」
悪戯っぽく笑う彼女の瞳は、昨日の不安が嘘のように輝いていた。
「俺をダシにすんなよ。……まあ、おかげで死なずに済んだし。失恋のショックも、どうでもよくなった」
「失恋、してたの?」
「もう忘れた」
「ふーん」
俺は小さく笑って、歩き出した。
数歩進んで、不意に足を止める。
振り返った視線の先で、どこか寂しげにこちらを見送る彼女の姿があった。
「……あのさ。来年の冬、またここに迷い込んでもいいかな? 今度は、もうちょっとマシなレフ板持ってくるから」
彼女は一瞬、目を見開いた。
それから、真っ赤になった顔を隠すように、またスマホを構えた。
「……待ってる。わたしのことは、絶対、内緒だからね」
「了解」
俺は今度こそ、力強く雪を踏み締めて歩き出した。
背中に届いた「またね」という掠れた声が、冬の冷たい空気のなかで、シチューのように温かく俺の胸を温めていた。
ネットの海の向こう側で、見ず知らずの誰かが「この手は誰だ」と騒ぎ立てている。
その正体を知っているのは、世界でたった二人だけ。
それが、どんな「バズ」よりも誇らしく、そして、少しだけ甘酸っぱかった。

