こんなにあおっているのに、なんで皆が冷めていくんだろう? ~もっと盛り上げようとしているだけなのに~
上手なあおりは感情を作るのではなく、既に生まれかけた反応を最後に解放するという仮説
前回の記事では、「つなぎ」について考えた。
上手なDJは、A曲とB曲を音として接続しているだけではない。
前の曲で生まれた客の身体、感情、集中、期待を、次の曲へ運んでいるのではないか。
では、選曲によって感情が作られ、つなぎによってその感情が運ばれたあと、DJ本人(或いはMC)はフロアへ何ができるのだろう。
そこで今回取り上げるのが、**「あおり」**である。
あおりと聞くと、まずマイクによる声かけを思い浮かべるかもしれない。
しかし、客側から見れば、あおりにはさまざまなものがある。
言葉
手の動き
表情
視線
身体の動き
音圧
ブレイク
ドロップへ向けた演出
これらを使い、DJはフロアへ直接働きかける。
ただ、同じように言葉を入れ、手を上げ、身体を大きく動かしていても、客側ではまったく違う体験になる。
自然に気持ちが上がり、思わず手を上げたくなるときがある。
反対に、あおりが入った瞬間、
「うわ、寒い」
と、一気に冷めることもある。
あおりが入るほど、音楽への没入が薄くなる時間さえある。
この違いは何なのだろう。
現時点で私は、次のように考えている。
上手なあおりは、客の感情をゼロから作るものではない。
選曲とつなぎによって、すでに生まれかけている反応を、最後の一歩だけ後押しするものではないか。
音楽の隙間を埋めるようなやり方なのではないか。
上手なあおりは、感情を最後に解放する
上手なあおりが入るとき、客側にはすでに何かが起き始めている。
音楽へ入っている。
身体が自然に動いている。
次の展開への期待が高まっている。
もう少しで手を上げたくなる。
声を出したくなる。
周囲と一緒に反応したくなる。
その瞬間に、DJが手を上げる。
短く声を入れる。
表情や視線によってフロアへ働きかける。
音圧やドロップによって、最後の一歩を押す。
すると客は、命令されたから反応するのではない。
自分の中ですでに生まれていた反応が、あおりによって解放される。
極端に単純化すると、次のような流れである。
上手なあおり
選曲によって感情を作る
↓
つなぎによって感情を運ぶ
↓
期待が少しずつ高まる
↓
客の身体が反応し始める
↓
最後の一歩だけあおる
↓
客の反応が自然に解放される
一方で、客の感情がまだ十分に作られていない。
次の展開への期待も積み上がっていない。
身体も反応し始めていない。
その状態で、
「手を上げろ」
「声を出せ」
「もっと盛り上がれ」
と求めても、客側には反応する理由がない。
まだ機能していないあおり
感情が十分に作られていない
↓
期待も積み上がっていない
↓
客の身体も反応していない
↓
突然あおる
↓
反応の形だけを要求する
↓
客は指示に従うか、冷める
まだ客の中に存在していない感情を、外側の反応だけ先に求める。
そのとき、あおりは後押しではなく、指図や要求として届くのではないか。
あおりは、感情を作るものではなく増幅するものなのかもしれない
客の感情が、すでに80まで上がっている。
あと少しで手が上がる。
あと少しで歓声が出る。
その瞬間にあおりが入れば、80が100へ届くことがある。
一方で、客の感情が20しかない状態で、100の反応を要求しても、身体はついていかない。
手を上げること自体はできる。
声を出すこともできる。
しかし、それは感情の結果ではなく、指示への応答になる。
見た目だけを見れば、一瞬フロア全体の手が上がっているかもしれない。
ただ、あおりが終わると、すぐに元へ戻る。
反応は起きた。
しかし、感情は積み上がっていない。
そのようなこともあるのではないか。
この違いを考えると、あおりは感情をゼロから生み出す装置ではなく、すでに生まれている感情や反応を増幅する装置として捉えたほうが自然なのかもしれない。
あおりには、いくつもの方法がある
前回までの記事では、DJがブース内で使える大きな手段を、
選曲
つなぎ
あおり
の三つに整理した。
今回「あおり」をさらに分けると、現時点では次のような樹形図になる。
図版|あおりに含まれる要素の樹形図
実現したいフロア体験
│
└─あおり
│
├─言葉によるあおり
│ ├─マイクで声をかける
│ ├─手を上げるよう促す
│ ├─声を出すよう促す
│ ├─フロアへ問いかける
│ └─次の展開を予告する
│
├─身体によるあおり
│ ├─手を上げる
│ ├─身体を大きく動かす
│ ├─表情を見せる
│ ├─視線を送る
│ └─フロアの反応へ応答する
│
├─音によるあおり
│ ├─音圧を上げる
│ ├─音数を増やす
│ ├─音を一度引く
│ ├─ブレイクを作る
│ └─ドロップを強調する
│
├─反応の広げ方
│ ├─フロア全体へ働きかける
│ ├─前方の客へ働きかける
│ ├─反応している一部へ応答する
│ └─一部の反応を周囲へ広げる
│
└─何もしない
├─音楽に任せる
├─客の自発的な反応を待つ
├─没入を壊さない
└─余計な説明を加えない
ここで重要なのは、「何もしない」も選択肢に含まれることである。
あおる技術を持っていることと、常にあおることは同じではない。
すでにフロアが音へ深く入っている。
客が自分の感覚で反応している。
音楽だけで十分に届いている。
その状態で言葉を差し込めば、むしろ没入を壊す可能性がある。
今は言葉を入れるべきなのか。
手を上げるべきなのか。
何もせず、客の自発的な反応を待つべきなのか。
あおりの上手さは、使い方だけでなく、使わない判断にも現れるのではないか。
「調子がいい奴、手ぇ上げろー」は悪いあおりなのか
例えば、四つ打ちの拍へぴったり合わせて、
「調子がいい奴、手ぇ上げろー!」
と入れるようなあおりがある。
私は、この種のあおりを、場所やタイミングによっては本当に寒いと感じる。
ただし、この言葉そのものが、どのフロアでも無条件に悪いとは思っていない。
この種のあおりには、明確な機能がある。
客が次に何をすればよいか分かる
音楽への参加方法が明確になる
反応するための心理的なハードルが下がる
初対面同士でも同じ行動を取りやすくなる
短時間で分かりやすい一体感を作りやすい
曲を知らない客でも参加しやすくなる
ドロップが来るタイミングを予測しやすくなる
クラブに慣れていない客は、
どこで手を上げればよいか分からない
どこで声を出せばよいか分からない
曲を知らない
ドロップの位置を予測できない
周囲とどう参加すればよいか分からない
ということがある。
その場合、
「ここで手を上げればよい」
「ここから何かが来る」
「今、皆で反応してよい」
と示すことは、音楽へ参加するための分かりやすい入口になる。
したがって、このあおりが有効かどうかは、言葉だけでは決まらない。
誰に向けるのか。
どのタイミングで使うのか。
客側にどのような感情が生まれているのか。
このあと、音楽的に何が起きるのか。
そもそも、本当にあおる必要があるのか。
そこまで含めて考える必要があるのではないか。
「それ、音楽だけでもう分かるよ」
一方で、音楽やクラブに慣れている客は、どこで反応したいかを自分で感じ取れることがある。
四つ打ちの展開が十分に分かりやすければ、客側にはすでに、
「ここから来る」
「ようやく解放される」
「ここで反応したくなる」
という感覚が生まれている。
音楽そのものが、次に何が起きるのかを伝えている。
そこへ四拍の中心へぴったり合わせて、
「手ぇ上げろー!」
と強い声が入る。
私の中では、その瞬間に、
「それ、音楽だけでもう分かるよ」
というツッコミが生まれる。
音楽から受け取っていたものを、わざわざ言葉でもう一度説明される。
自分の感覚で反応しようとしていたところへ、反応の正解を指定される。
映画で、登場人物の表情や音楽によって悲しさが十分に伝わっているのに、
「今、この人は悲しんでいます」
と説明されるようなものである。
分かっている。
こちらも、すでに感じている。
だから説明しなくてよい。
それまで音へ向いていた注意が、強制的に言葉へ向けられる。
その瞬間、意識が音楽から離れる。
没入が薄まる。
「はいはい、ここでまた言うんでしょ」
さらに、同じ形のあおりが何度も繰り返されると、客側には型が見えてくる。
四拍の中心へ来る。
ドロップの直前になる。
そして、また同じ声が入る。
すると、曲の展開を感じるより先に、
「はいはい、ここでまた言うんでしょ」
と予測するようになる。
本来なら、音楽の次の展開へ期待を向ける場面である。
しかし実際には、DJやMCの定型動作を先読みしている。
音楽を聴いているのではない。
「また、いつものあおりが来る」
と確認する時間へ変わる。
あおりが音楽を補うのではなく、あおりの型が音楽より前へ出てしまう。
音楽の展開ではなく、MCの定型動作が見える。
この予測可能性が、
「浅い」
「陳腐」
「寒い」
という感覚につながるのではないか。
同じ場所で、同じ方向へ声を重ねる
四つ打ちのキックは、客が身体を預けている中心的な基準の一つである。
そこへ、同じタイミング、同じ強さ、同じ方向で声が入る。
音楽も上がる。
声のトーンも上がる。
言葉でも、
「上がれ」
と要求する。
すべてが同じ意味を、同じ場所から押してくる。
その結果、声が音楽を補うのではなく、音楽の主導権を奪いやすくなる。
客はキックへ身体を預け続けるのではなく、
「何と言ったのか」
「今、反応するべきなのか」
「手を上げるのか」
と、言葉を処理し始める。
そこへ強い声が四拍の中心へ入り込むと、注意が強制的に言葉へ向く。
客は、ベースのうねり、ハイハットの細かな揺れ、シンセの伸び、フレーズ全体の呼吸へ身体を預けていた。
しかし、言葉が中心へ入ることで、無意識に踊っていた身体へ意識が戻る。
あおりは拍に合っている。
しかし、客の没入には合っていない。
拍へ正確に合わせることと、音楽の中へ自然に存在することは、同じではないのかもしれない。
感情と反応の順番が逆になっている
本来自然なのは、次の順番ではないか。
音楽を受け取る
↓
感情が高まる
↓
身体が反応したくなる
↓
手が上がる
↓
声が出る
しかし、あおりが客の感情より先へ出ると、順番が逆になる。
「手を上げろ」と言われる
↓
手を上げる
↓
声を出す
↓
感情も上がったことにする
内側に感情が生まれる前に、外側の反応だけを求められる。
客は反応の形を作ることはできる。
ただし、それが自分の内側から出た反応とは限らない。
そのため、一瞬だけフロア全体の手が上がっても、すぐ元へ戻ることがある。
参加しているように見える。
しかし、内側では少しずつ冷めていく。
あおりによって感情が生まれたのではなく、感情がないまま反応だけを作ったからではないか。
客の音楽理解を、低く見積もっているように届く
クラブに慣れていない客へ、参加方法を示すことは有効な場合がある。
しかし、音楽やクラブに慣れている客へ、毎回同じように反応方法を説明すると、
「ここで反応することも分からないと思われているのか」
という感覚が生まれることがある。
自分で音楽を感じる能力を信頼されていない。
自分のタイミングで反応する余地を与えられていない。
常に説明され、誘導される。
親切というより、幼い扱いを受けているように感じる場合もある。
特に、自分の感覚で音楽へ入りたい客にとっては、客の音楽理解や身体感覚を過小評価したあおりとして届くのかもしれない。
これも、「浅い」「陳腐」「寒い」という感覚につながる可能性がある。
上手な人は、音楽の隙間へ声を置く
一方で、言葉を多く入れているにもかかわらず、ほとんど邪魔に感じない人もいる。
そうした人は、四つ打ちの中心へ機械的に声を重ねない。
少し前へ置く。
少し後ろへずらす。
あえて間を作る。
声のトーンも、音楽と同じ方向へ強く合わせすぎない。
一見すると、拍から外れているように聞こえることもある。
しかし、キックの場所を声で塞いでいない。
音楽の上へ乗るというより、音楽が空けた隙間へ入っている。
そのため、客の身体は四つ打ちへ乗り続けたまま、言葉を別の層として受け取れる。
これまで上手いと感じた人は漏れなくこれが出来ている。
キックと競合しない
上手なあおりでは、キックと声が同じ場所を奪い合わない。
キックが鳴る。
身体が反応する。
そのあとに生まれた余白へ、短く声が入る。
そして、再び身体はキックへ戻れる。
言葉が入ったことで、身体の基準を変更する必要がない。
声が音楽の中心を奪わず、音楽の中へ一つの質感として加わっている。
だから、言葉が多くても踊りを邪魔しにくいのではないか。
ドンピシャ型のあおりは、
「キックか、声か」
という競合を作りやすい。
上手なあおりでは、
「キックのあとに声があり、そのあとに再び音楽へ戻る」
という流れができている。
声が音楽を止めず、音楽の中に居場所を与えられている。
予測できないが、邪魔ではない
四拍へ毎回同じ形で入るあおりは、非常に予測しやすい。
「次の四拍で、また叫ぶだろう」
と型が見える。
一方で、上手な人の声は、完全には予測できない。
ただし、音楽の流れは壊していない。
身体が乗っている基準は安定している。
その上へ、小さな意外性として言葉が入る。
身体には安心がある。
注意には新鮮さがある。
この二つが同時に成立するため、声が入っても冷めにくいのかもしれない。
予測できないこと自体が良いのではない。
予測できない声が入っても、身体の基準が壊れない。
だから、新鮮さだけを受け取れる。
声のトーンを、音楽と同じ方向へ重ねすぎない
音楽が上昇している。
声も大きくなる。
トーンも上がる。
言葉でも、
「上がれ」
と伝える。
すべてが同じ方向へ重なると、説明過多になりやすい。
一方で、音楽が激しくなっているところへ、あえて低い声を置く。
力を抜く。
少し遅れて言う。
短く囁く。
音楽と声の間に対比を作る。
すると、声は音楽と同じ感情を繰り返すのではなく、別の質感を加える。
音楽は熱い。
声は静か。
音楽は上昇している。
声は落ち着いている。
その対比によって、音楽に奥行きが生まれる。
同じ感情を重ねるのではなく、異なる質感を足している。
だから、言葉が入っても音楽の主導権が奪われにくいのではないか。
「反応しろ」ではなく、「この空気を一緒に感じよう」
上手なあおりは、内容としても、
「反応しろ」
という要求より、
「この空気を一緒に感じよう」
という誘いに近いことがある。
命令口調で、拍の中心へ大声を入れ、客が反応するまで何度も繰り返す。
そうなれば、客側の参加する余地は小さくなる。
一方で、少し外したタイミングで、抑えた声を短く入れ、そのあとに余白を残す。
その場合、客は反応してもよい。
反応しなくてもよい。
自分の感覚で、参加方法を選べる。
客の自発性が残っている。
そのため、
「踊らされている」
のではなく、
「音楽の中へ誘われている」
と感じやすいのではないか。
良いあおりは、客の行動を支配しない。
参加する入口を開き、その先を客へ委ねる。
だから、言葉が入っても息苦しくならないのかもしれない。
拍に合わせるのではなく、音楽の呼吸に合わせる
上手な人は、細かな四拍へ機械的に合わせているのではなく、もっと大きな音楽の流れを見ているのかもしれない。
フレーズ。
緊張と解放。
音数の増減。
空白。
次の展開までの距離。
音楽が一度話し終わり、呼吸する瞬間。
そこへ声を置く。
細かい拍だけを見れば、少し外れている。
しかし、音楽全体の意味や呼吸には合っている。
拍には外れているが、音楽には合っている。
だから、声が邪魔にならない。
むしろ、音楽へ別の奥行きを加える。
下手なあおりは、音楽と同じ場所で大声を出す。
上手なあおりは、音楽が空けた場所へ声を置く。
下手なあおりは、四拍に合わせる。
上手なあおりは、音楽の呼吸に合わせる。
この違いは、かなり大きいように感じる。
音楽へ割り込むのではなく、音楽と会話する
四拍の中心へドンピシャで入り、
「はい、ここで反応してください」
と要求するあおりは、音楽が話している途中へ割り込むように感じることがある。
一方で、邪魔に感じない声は、音楽と会話しているように聞こえる。
音楽が一度話す。
少し余白が生まれる。
そこへ声が返す。
再び音楽が応える。
そして、客が反応する。
音楽
↓
声
↓
音楽
↓
客の反応
音楽と声が、同時に主導権を奪い合わない。
順番に役割を持つ。
だから、声が多くても混雑しない。
音楽の上から命令しているのではなく、音楽の一部として会話へ参加している。
この状態では、声そのものも一つの楽器や質感として受け取れる。
一部の反応を見つけ、全体へ広げる
上手なあおりは、反応していないフロア全体へ、一律に要求するだけではないのかもしれない。
すでに反応し始めている人を見つける。
前方で数人が手を上げ始める。
身体の動きが大きくなる。
声が出始める。
DJがその反応へ応える。
周囲がそれを見て参加する。
小さな反応が、少しずつ全体へ広がる。
この場合、ゼロから全員へ反応を強制しているわけではない。
客の中に生まれた小さな火を見つけ、それを全体へ広げている。
反対に、まだ誰も反応していない状態で、
「全員、手を上げろ」
と要求しても、反応の起点がない。
上手なあおりには、言葉やタイミングだけでなく、今、どこに反応が生まれ始めているのかを見る力も必要なのではないか。
ドロップの価値を、言葉で先に消費していないか
ドロップの快感には、
「何かが来そうだ」
「そろそろ来る」
「まだ来ない」
「来た」
という期待と解放がある。
客は、自分の感覚でその展開を予測する。
緊張が積み上がる。
身体が準備する。
そして、音が解放された瞬間に反応する。
しかし、その直前に、
「行くぞー!」
「手ぇ上げろー!」
と入れると、解放の位置が明示される。
客が自分で予感し、自分の感情で到達する余地が小さくなる。
お笑いのオチの前に、
「今から面白いところです」
と言われるようなものである。
音楽によって盛り上がるはずだった瞬間を、言葉が先に説明してしまう。
あおりによって盛り上げようとして、ドロップが持っていた期待や解放を先に消費してしまう可能性もある。
あおりが、DJ自身の存在確認になっていないか
同じ型のあおりが、曲の展開や客の反応にかかわらず繰り返される。
その状態が続くと、
「フロアに必要だから言っている」
というより、
「何かしているDJに見せたいから言っている」
「黙っていると存在感がないから言っている」
ように感じることがある。
もちろん、本人が実際にそう考えているとは限らない。
外から確認できるのは、似た言葉や動作が、客の状態にかかわらず繰り返されていることだけである。
ただ、客側では、音楽上の必要性やフロアの反応と関係なく毎回あおりが入ると、あおること自体が目的になっているように見えることがある。
これは、この連載の第1投稿で考えた、
「手段を使うこと自体が目的になる」
という問題そのものである。
マイクを使えるから使う。
手を上げさせられるから要求する。
盛り上げているように見せたいから声を出す。
しかし本来は、
「客へ、どのような状態を生みたいのか」
という目的が先にある。
あおりは、その目的を実現するために必要な場合だけ使われる手段ではないか。
客を動かす前に、動きたくなる状態を作る
客へ手を上げてほしい。
声を出してほしい。
もっと大きく身体を動かしてほしい。
その願い自体は、悪いものではないと思う。
ただ、客の身体を直接動かそうとしても、自然な反応が生まれるとは限らない。
先に必要なのは、
その曲へ入っていける
身体の基準が定まる
次の展開を期待できる
感情が少しずつ高まる
周囲の反応へ参加したくなる
自分から手を上げたくなる
という状態ではないか。
その状態を、選曲とつなぎによって作る。
客の反応が生まれ始める。
その最後の瞬間に、あおりを使う。
上手なDJは、客を無理やり動かさない。
客が動きたくなるところまで音楽で連れていき、最後の一歩だけをあおる。
その順番が重要なのではないか。
今回の仮説
今回、あおりについて考える中で、現時点では次のような仮説を持っている。
上手なあおりは、客の感情をゼロから作るものではない
選曲とつなぎによって生まれた感情を、最後に増幅し、解放するものではないか
客の感情より先に反応の形を要求すると、あおりは後押しではなく指図になる可能性がある
同じ言葉でも、客層、タイミング、曲の展開によって機能が変わる
クラブに慣れていない客には、分かりやすいあおりが参加の入口になる場合がある
音楽だけで反応できる客へ毎回説明すると、没入や自発性を奪う可能性がある
四拍の中心へ毎回同じ形で入るあおりは、型が見えやすく、音楽よりあおりが前へ出ることがある
同じタイミング、同じ強さ、同じ方向で声を重ねると、声が音楽の主導権を奪いやすい
拍から少し外し、音楽の隙間へ声を置くと、キックと競合しにくい
上手なあおりは「反応しろ」ではなく、「この空気を一緒に感じよう」という誘いに近い
上手な人は、細かな拍よりも、音楽の呼吸、フレーズ、緊張と解放へ声を合わせている可能性がある
あおりは、音楽へ割り込むのではなく、音楽と会話するように入ると邪魔になりにくい
フロア全体へ反応を強制するのではなく、すでに生まれている小さな反応を広げる方法もある
何もしないことも、没入と自発性を守る重要な選択になり得る
上手なDJは客を直接動かすのではなく、客が動きたくなる状態を先に作るのではないか
これは、DJ技術についての専門的な結論ではない。
延べ1000回以上クラブへ通い、声が入るほど高揚した時間と、声が入った瞬間に冷めた時間を客として比較する中で生まれた、現時点での仮説である。
同じあおりでも、ジャンル、客層、会場、時間帯、曲の展開、DJと客の関係によって、受け取られ方は変わる可能性がある。
また、声の入れ方については、DJ、MC、音響、ダンサーなど、それぞれの専門的な立場から別の説明も考えられる。
それでも客側では、
「言葉が入っているのに、なぜ邪魔ではないのか」
「拍に合っているはずなのに、なぜ冷めるのか」
という違いが確かにある。
現時点で、その違いを最も短く表すなら、
下手なあおりは、音楽と同じ場所で大声を出す。
上手なあおりは、音楽が空けた場所へ声を置く。
そして、
下手なあおりは、客へ反応を要求する。
上手なあおりは、客の中に生まれた反応を解放する。
ということになるのではないか。
次回は、ここまで取り上げてきた、
選曲
つなぎ
あおり
を一つの全体として整理したい。
選曲で、次の感情を選ぶ。
つなぎで、その感情へ客の身体を運ぶ。
あおりで、生まれかけた感情を最後に解放する。
DJがブースの中から行う三つの働きかけが、どのように一つの感情曲線を作るのか。
今回の連載のまとめとして考えていきたい。
このプロジェクトについて
この「DJ・クラブ・フロアらぼらとりー」では、良いDJ、良いフロア、良いクラブが生まれる条件を、客側の体験から観察し、考え、言葉にしています。
私はDJ技術の専門家ではありません。一方で、延べ1000回以上クラブへ通い、多くのDJとフロアを客として体験してきました。
ここで書いているのは、完成された唯一の正解ではありません。外から確認できたこと、私自身が感じたこと、複数の体験を比較する中で生まれた仮説を分けながら、少しずつ確かめていくための記録です。
四つ打ちへぴったり合わせた声によって、音楽への没入が途切れたと感じた経験はありますか。
反対に、言葉が多く入っているにもかかわらず、声が音楽の一部として自然に感じられた経験はあるでしょうか。
DJ、MC、音響、ダンサー、店舗運営など、それぞれの立場から見える声のタイミング、音楽の隙間、フレーズや呼吸との関係があれば、ぜひ教えてください。
音好きにとって、たまらないフロアがもっと増えていくことを願っています。
ハッシュタグ
#DJクラブフロアらぼらとりー
#DJ
#クラブ
#クラブミュージック
#DJプレイ
#あおり
#音楽と身体
#没入感
#フロア観察
#仮説
